コロナについていろいろ勉強してきて、結局カギを握るのはユニバーサル(普遍的)な生存権の思想だろうということに思いが至った。
言葉だけ取り出すと、まぁいわば宗教の世界である。ただ偉大な宗教家がそれを思念の果てに漠然たる目標(ゴール)として選び取ったのではなく、もっと現実的で、差し迫った課題(タスク)として提起されているという違いである。
そういう思いで世界人権宣言や各種の人権文書を読んでみると、どれもみな微妙に的を外れていることに気づく。書き出しはりっぱだが、終わりは各論の延々たる羅列に終わる。大河のような流れが事実の砂漠の中にやせ細っていく。そこにはゴールに向かっての道のりが見えない。
これなら聖書を読んだほうが、個人的にははるかに救いは得られる。

我々が心しなければならないのはひとつ。世界人権宣言が発表されて以来70年、世界のすべての人々に対する生存権の保障はほとんど前進していないということである。

そしていま重要なこと。それはコロナのパンデミックのもとで、“ユニバーザルな生存権”が絵に描いた餅だという事実が白日のもとにさらされていることだ。
そしてもっと重要なことは、この権利が保証されないまま事態が進めば、それはブーメランとなって全人類にはね返り、人類滅亡の危険を招きかねないということだ。

致命的な第二波のパンデミックが来ない間に我々がなすべきことは3つある。
短期的には、第一波で人類が叡智を振り絞って考え出したありとあらゆるノウハウを結集し、教訓化し、第二波に備えることだ。とくに臨床医学的知見とウィルス学的治験のつき合わせでこの感染症の科学的構築を進めることだ。
中期的には、必要な医薬品、設備・装置の開発を急ぎ、配備を進めることだ。また第一波を広範に総括し、社会資源の有効な配置を一元的に進めることだ。
長期的には、ここがいちばん大事なのだが、途上国等の流行最前線に必要な援助を行いここで火の手を食い止めることだ。実のところ途上国はいま感染真っ盛りなので、むしろ超短期課題とも言える。ただ私はこれを短期課題にしたくないので、あえて長期課題と括っておく。

コロナとの闘いがユニバーサルな生存権をもとめている

途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。
わたしがユニバーサルな生存権を重視するのは、平等な権利は互助の精神と表裏一体のものと思うからだ。

そして、まさにこの「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。

国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。

それは私達先進国に住む諸個人が、資源の拠出を(“ユニバーサルな生存権”に照応する意味で)義務と考えるところから始まるのではないかと思う。