「いわゆる夜の街」は発言者の品位だ

それは「強烈な正義感」に基づく曖昧な定義だ。つまり禁じ手である。とくにその表現が社会的弱者に向けられている点で、きわめて危険な思想だ。

同時にそれは口にするのもはばかるような下品な言葉で、人中で大きな声でしゃべるような言葉ではない。若い人にはわからないかもしれないが、それはたんなる繁華街ではない。それは「夜の街」という一つの単語であり、立ちんぼであろうと赤線であろうと、つまりは売春街なのだ。

「夜の繁華街」と「夜の街」とはまるで違うものなのだ。

むかしたしかそんな名前の映画があった。「こんな女に誰がした」というのが主題歌だったんではなかったか。

それはともかく、人の上に立つ人で、これほど危うい情緒的表現で人々を貶める人物は見たことがない。

一言で言って、人としての品性が感じられない。厚塗りの顔をひんむくたら、真っ黒なドロドロとしたものがうごめいているのではないかと思ってしまう。

第一に、それは強烈な嫌悪感をうちに秘めた言葉だ。聞くだけでもおぞましい言葉で、公の場で然るべき立場の人が口にするような言葉ではない。

彼女には独特の「健全な街」概念がある。それが基準になって、それ以外の世界を嫌悪し排斥することになる。
彼らをいなくても良い人々、いないほうが良い人々と捉えているようだ。

「夜の街」はたちまちのうちに黒い世界、闇の世界を指す言葉に置き換えられていくのではないか。あるいはそれを期待して吐き出された言葉ではないか。そういう危うさを強烈に感じる。

第二に、それはきわめて曖昧で境界はあえてぼかされている。具体的な業態に基づく区別ではなく、曖昧で強烈な正義感に基づく分類だからである。

その言葉をあえて認めたとして、「あれは夜の街、これは健全な街」という線引が生じることになる。

その際に強烈であることと曖昧であることが、きわめて危険な傾向を生じることは避けられない。

悪がランキングされ、「夜の街」は無間地獄として位置づけられる。しかもそれは「いわゆる夜の街」として恣意的に拡大解釈されていくことになる。

第三に、これはあまり考えたくはないことだっが、このようなソーシャルバッシングは、「このようなウジ虫どもに営業を保証する義務などない」とし、「補償なしの自粛」を強要する手段としても使いうることだ。

これは弱者を不良者として切り捨てる思想であり、うまく行けば偏見と憎しみをその糧に、包囲網をさらに拡大していくことも可能である。

ではどう表現すべきか。事実に即してありのままに客観的に語ればよいのである。

夜の繁華街は夜の繁華街として語ればよい。たまたまクラスターが発生したとしてもカラオケやクラブやライブハウスは「いわゆる夜の街」とは無縁である。スナックなど女性の接待を伴う店でも、別にいやらしくない健全な店はたくさんある。


Note というサイトの6月5日号に
という記事がある。飲食店/人/組織づくりコーチの野口信一さんが書いている。一昨日アップされたばかりだ。

かゆいところに手が届くような、親切な文章で、裏返せば危機感がひしひしと伝わってくる文章だ。詳細は本文をご覧いただきたい。

 ここに掲げるのは野口さんの労作だ。
業態

地域によって業態表現や呼称、客単価額や閉店時間など様々で、仕事で全国47都道府県に行き、各地の“夜の街”を訪れた小生としての標準化ではあるが、凡そ間違ってはいないと思う。
とある。

野口さんの提言は下記のごとくである。

①業態呼称を公明正大に行政が利用し、
②“接待を伴う飲食店”や“夜の街”と総括するのではなく、
③“イカガワしい秘匿性の高い業種”扱いをせず、
④個別の業態として世に認知されるべきだ。

この提案が正しいかどうかはわからないが、少なくとも行政が率先して「いわゆる夜の街」と差別をするよりははるかにマシと思う。


取り越し苦労といえばそれまでだが、これまでも私達は、部落民、朝鮮人、アイヌ人、沖縄人などに対する根拠のない、常軌を逸した差別が行われるのを見てきた。

この都知事発言がある種の職業、職域に関わる人々への集団「虐殺」につながらないよう見守りたい。