1.超帝国主義はまやかしだ

ネグリの「帝国」はGAFAMのことであろう。当時はまだ正体がわからなかったから、ヘッジファンドとか言っていたが、ようするに新自由主義の発達に伴って、これまでの多国籍企業の枠を超えた超国家的権力が生まれつつあるということだったのだろう。

この考えは2つの点で、大間違いだとうことが分かった。

第一にGAFAMの下に生まれつつある超帝国主義は資本の持つ悪意が極度にまで進展したものだということ。
決して資本主義の進歩した形態ではなく、もっとも腐朽した形態なのだ。

第二に、GAFAMは国籍を持ち、母国によって守られているということだ。
それがもっとも端的に現れたのが、租税回避をめぐる国際論議だ。米国は諸外国におけるGAFAM課税の動きを恫喝し、自国への還流を策している。

つまりGAFAMは超国家権力ではなく、アメリカ帝国主義の一部であり、そのバーチャルな表現なのだ。

2.新自由主義とグローバリスムは厳密に使い分けられなければならない

両者の意味は、少なくとも経済学的にはまったく異なる。しかしその言葉の指す現実社会の領域が類似しているので、しばしば混同される。中には意識的な混同もある。

これはグローバリズムという言葉が多義的であることに原因がある。また新自由主義も学説としてのマネタリズムという他に、主として米財務省が打ち出した国際貿易、金融政策という意味があって、これも意識的に混同される。

新自由主義政策のマニフェストは、ワシントン・コンセンサスである。

これは以下の条項を原理とする
1.資本の移動の自由
2.通貨の交換の自由
3.労働の移動の管理と制限

繰り返しになるが、もう一度確認しておきたい。

「世界資本主義」は、労働の自由と労働者の移動の自由が確保されない限り幻想である。それはアメリカ帝国主義に対する幻想である。


3.マルティチュードと新中間層

とはいえ、先進国や一部の新興国では資本の一定の蓄積のもとで、中間層が形成されつつある。

以前から、こうして形成される新中間層とは何なのかがずっと気になっていた。

去年ニカラグアを訪問したとき、政権を支えるヤング世代の人々の存在が非常に気になった。

サンディニスタ革命40周年というから2世代経過している。サンディニスタが政権を降りてから30年だ。つまり35歳以下の人々、すなわち人口の圧倒的部分はサンディニスタの闘いを知らない。

彼らの多くは2006年、ダニエル・オルテガが大統領に再選されて15年の業績で判断しているのだ。
関係者の話をいろいろ聞いて分かったのは、彼らには定職があり、それは、生活は厳しいが誇りを持てる職業だということだ。彼らはこの間に偽りのない教育を受け、ディーセント・ワークを獲得している。

教員であったりナースであったり、清掃であったり、ゴミ収集であったりするが、公務員だ。正規の労働者として保護される。そんな国は中米に一つもない。

第二には社会的生活基盤が整備され、共稼ぎで子を育て、世代を再生産する余地があるということだ。それは家族の明日があるということであり、未来には安定が期待できるということだ。

これは、中間層=小ブルと考えるこれまでの発想とはまったく異なるが、全人口の95%が貧困層・失業者に属するような社会ではきわめて妥当な定義だ。

肝心なことは、その新中間層が既存の支配層と貧困層を結びつける接着剤となって、国家と国民を形成することなのだ。

昨年4月ニカラグアでは、金で雇われた「民主主義派」の暴動や暗殺などの策謀を平和的に吹き飛ばした。それは私達がこの目で見てきた。

ベネズエラでも、相次ぐクーデター策動や経済封鎖で明日にでも崩壊しそうな政権が、実はアメリカの攻撃に耐え抜く底力を身に着けつつあるのではないだろうか。

4.非生産労働者こそマルティチュード

ラテンアメリカのことだとつい力が入ってしまう。

話がとんでしまったのだが、私はマルティチュードはこのような形で生まれてくるのではないかと思う。

彼らの多くは、物質的生産→流通・販売という広義の生産過程ではなく、物質を消費し、それにより生活を生産し、それにより欲望を生産する過程にかかわる労働者であり、そノ生活インフラを支える労働者であり、マルクス流に言えば非生産労働者である。

5.生産は欲望の拡大と道連れで拡大する

たしかに物質的富の生産こそが社会の村立基盤であり、生産関係が社会関係を規定する。そのことを否定するものではない。

ただ産業革命とマルクスが観察した急速に発展する資本主義社会というのは、世界史的には例外の時代だったのではないかと考える。

それは大規模な世界交易の発展期であり、海外市場は無尽蔵であり、工業製品は作れば売れる時代だった。場合によっては大砲で脅して買わせることも“自由”だった。
したがって物質的生産が度外れに強調される時代だったのである。

市場が円熟すれば、消費活動を抜きに生産活動は語れなくなる。

そこで第二次大戦後の大量生産・大量消費時代が展開されたのだが、人工的に煽られた欲望にはいずれ限界が来る。

そのような「大衆社会論」の行き詰まりが新自由主義を招いたのだが、これは「神の手」論と「トリクルダウン」論に基づくフィクションである。

こんなことをしてはいずれどんでん返しがやってくる。みなそれを感じながら目をつぶって進んできたのではないか。そしてコロナが最悪のどんでん返しをもたらすのではないか。

6.欲望にも市場がある

もちろん欲望の一番の基礎は物質的富にあるのだが、現代では物質的富は一部に過ぎず非物質的なものへの欲望のほうがはるかに高い比重を持つようになっている。

非物質的欲望の一番基礎に座るのは、社会的サービスだ。医療・教育に始まって、清掃から防災など多岐にわたる。私はこれを社会インフラと呼ぶ。

そしてその上に、芸術・スポーツ・娯楽などの実に多様な世界が広がっている。私はあまり勉強していないのでお教えいただければありがたい。

社会インフラが等差級数的に進めば、枝葉の部分は等比級数で拡大する。社会の人的生産力はますますこの世界に広がっていく。

非物質的市場のイメージについては、到底わたしに論及しうるようなものではないが、以下は言えるのではないか。
すなわち、それはかなり労働力市場と近縁のものであり、その“裏返し”の形態を取るのではないか。

社会インフラで働く労働者がその他の労働者を引っ張り、労働者階級の前衛に立つ形で市場の一報を形成していくのではないかということだ。

7.社会インフラ労働は本質的に協業である

物質的生産労働においては分業が本質であり、協業は補完的である。大規模生産においては部門内での協業がかなりの程度まで発展するが、社会的生産の主流を形成するわけではない。

これに対し、社会インフラ労働は、すでに社会の手によって分割されたものとして提示されている。だから社会インフラ労働は本質的に協業的であり、かつ社会的である。

ネグリは、おそらく無意識的であろうが「生産的協働」という言葉を用いている。

ネグリはそれをこういう。
マルチチュード労働者の保有する活動諸力は生活すること、愛すること、変革すること、創造することである。マルチチュードの生きた労働こそが、潜在的なものから現実的なものへの通路を築きあげる。
それらの生きた労働は直接的に社会的ネットワ!ークであり、コミュニティーの諸形態である。
非物質的労働は本質的に協働的であり、必然的に社会的相互作用をもたらす。
これらの特徴が非物質的労働自体を価値づけているのだ。

その兆候はすでに、オキュパイ闘争を通じて現れている。オハイオ州での下級公務労働者の反緊縮の闘い、最低時給の引き上げを求める闘争に示されている。