ひのまどか「戦火のシンフォニー」 紹介

目下、「コロナと国際連帯」に打ち込んでいて、レニングラードどころではない。

を一応の打ち止めにして、後は「コロナと国際連帯」をまとめようと思っていた。

ところが、


で一段落したところに、旅行仲間から上記の本をプレゼントされてしまった。
それでパラパラと読み始めたところ、そのままのめり込んでしまい、結局読み通してしまった。
一応読後感ということで、おさらいしておきたいが、長くなる危険も感じている。

実は、道立図書館で「レニングラード攻防戦」という本も見つけてしまい、図書館が再開したら借りるつもりで居た。

これはやばい。
今回はとりあえず、レニングラード放送交響楽団のことだけ触れておく。



この本の冒頭には、現地で関係者からの聞き取りもふくめて詳しく触れられている。

ただ、どういうわけかこのオケについてはネット情報も結構豊富で、ちゃんとウィキにも一項目立ち上がっている。と言ってもきわめて簡潔だが…。まずはそこから始める。

1.サンクトペテルブルク交響楽団 - Wikipedia

1931年に、サンクトペテルブルク放送のオーケストラとして設立。

1953年に、レニングラード放送を離れ、レニングラード・フィルハーモニア協会の傘下となる。「レニングラード交響楽団」と呼ばれていた。歴代の指揮者にアルヴィド・ヤンソンス、ユーリ・テミルカーノフら。

1977年から現在までアレクサンドル・ドミトリエフが芸術監督兼首席指揮者を務めている。

2007年、日比谷公会堂で井上道義の指揮で、ショスタコーヴィチ交響曲連続演奏会を行う。

2.ディスコグラフィ

数枚のCDが販売中(HMVとNAXOS)で、

①「戦時の手紙」と題された国内作曲家のアンソロジー。1983年の録音。
②ブラームスのダブル協奏曲でオイストラフ特シェヴィッキーの演奏。指揮はエリアスベルグらしい。ただし取り扱い停止中。
③エリアスベルグの指揮でブラームスの3番。こちらにはバイオリン協奏曲がカップリングされており、オケはソビエト国立だ。

はっきり言って忘れられたオーケストラだ。


3.「レニングラード放送交響楽団」の発見

そこで、ひのさんの記述に入っていく。

文学的な書き出しなので、事実を整理するのが大変だが、あらましはこうだ。

2003年にひのさんが市内中心部の小さな博物館を発見した。

博物館の正式名称は「ショスタコービッチ記念民間博物館」といい、1968年に開館した。

この博物館の設立目的は、端的に「ショスタコービッチのレニングラード交響曲のレニングラード初演を記念」することにある。

この曲のレニングラード初演は、レニングラード放送交響楽団によるものだったから、この博物館はレニングラード放送交響楽団を記念するものでもある。

展示物の多くはこの楽団由来のもので、コレクションは2万点にのぼる。

しかしこの博物館も、楽団さえも世間から忘れ去られた存在になっている。

そこまでが前フリというか、ひのさんがこの楽団を注目するに至った経過でもある。


4.この楽団の生い立ち
1931年に、サンクトペテルブルク放送のオーケストラとして設立。
ソ連時代には「レニングラード交響楽団」と呼ばれていた。
というウィキペディアの記述は誤りである。

サンクトペテルブルクという名称は第一次大戦を機にペトログラードとロシア風に改称されている。

そして1924年にレーニンの死を機にレニングラードと再改称されている。だから1931年にはすでにレニングラードであり、この楽団が「サンクトペテルブルク放送のオーケストラ」であったことはない。

1931年、最初はレニングラードラジオのコンサートオーケストラとして、まもなく大規模な交響楽団として成長した。

戦争中、包囲された都市に残ったのはレニングラードラジオオーケストラだけだったが、冬の飢餓の間に事実上消滅した。

その後ジダーノフの指示により再編成された。包囲中にオーケストラは300回以上演奏した。

42年8月9日、エリアスバーグの指揮のもとで、ショスタコビッチの第7交響楽団のレニングラード初演を行った。

これがある意味でこの楽団の絶頂であったのかもしれない。


5.レニングラード・フィルの「二軍」になる

ひのさんの本によると、どうも1953年の組織改編がかなり問題だったらしい。53年にスターリンが死んで、宮廷内クーデターでモロトフ、ベリヤが倒され、フルシチョフが勃興してくるので、このことが関係するのかもしれない。

その前の48年にはジダーノフが急死し、彼の息のかかったレニングラードの幹部が一掃されている。

何が(表面的に)起きたのか、関係者のインタビューがかなり詳しく紹介されている。

文化省の決定で、フィルハーモニー協会に第二オケが創設されることになった。第一はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団である。

第二オケは、放送交響楽団を基盤とすることになった。

その際、二つのオケが同じ名前だと紛らわしいので、こちらをレニングラード交響楽団と呼ぶことにした。

発言を素直に受け止めれば、「踏んだり蹴ったり」である。

放送交響楽団が、むかしからのフィルハーモニーに対して対抗馬として登場する、というのはヨーロッパではよくある話である。

ましてレニングラード放送交響楽団は、多くの犠牲者を出しながら、レニングラードに踏みとどまった楽団であり、それなりのプレステージはあっただろうと思う。ただしジダーノフ・クズネツォフら当時の市指導部に引き立てられていたことも間違いない。

楽団を記念する博物館は楽団に対するオマージュの象徴であるが、博物館がほとんどネグレクトされてきたのも、またその後の変化の象徴だったのかもしれない。

ただ、このことについては私はあまり立ち入らないことにしようと思う。私の関心とは離れるのと、あまりにも情報が少なく判断しかねるからだ。