田中克彦「言語学とはなにか」(岩波新書)を読んで

昨日、酔いに任せて一気に言語学ルサンチマンを撒き散らしたが、あらためて読み直すと結構恥ずかしい。

実はこの本読み切っていない。途中で投げ出したのだ。第2章の終わりから第三章のはじめにかけて頭が朦朧としてきた。それと同時に得体のしれない怒りが頭をもたげてきた。

「またしても騙された!」

言語学の本を読むときに味わうあの一種独特な居心地の悪さを、またしても強烈に感じた。
「言語学」とは学的傲慢さの上に成立する学問である。それを承知で読むのならそれはそれで十分面白い。ところがこういう入門書や啓蒙書は、「言語学」が言葉について研究する学問ではないということを嫌というほどあからさまに主張する。にもかかわらず「言語学」という看板を握って離さないのである。
言ってみれば、他人の家の戸口に勝手に自分の表札を付けて、「ここは俺の家だ。何も知らないくせに、勝手に入ってくるな」と主張するようなものだ。
我々が日頃言葉というものについてあれこれ考え、あれこれ発言するのはよくあることなのだが、言語学者は「そんなものは言語学ではない」と言いはるのだ。こういうのを普通は「盗っ人猛々しい」というのである。

ある有名な言語学者はこう言い放ったといいう。
言語学を一般人向きにすることなど不可能である、そのようなことを試みる必要はない。
別の言語学者はこう言っている。
一般の素人はもちろんのこと、教養のある人々や、言語学と密接な関係にある科学の部門に携わる人々でさえ、概して言語学の知識はゼロである。
本来は彼らが言葉を譲って、自らについては「言語の構造学」とか「言語の社会学」とか言うべきなのだ。

最後は著者の田中さん自身の発言である。
世間では、なにはともあれ、言葉の本質を知るためにはその歴史を知らなければならないとよく言われる。こういう事を言う人が、実は物事の本質についてあまり良くわかっていないということは、話しているうちにすぐに分かってくる。
こういうオームみたいな人の本を読む気がしますか?

「心理学」と同じ発想

これは「心理学」という言葉と同じだ。
以下は私が以前に書いた文章の一節だ。何回も引用しているが、また引用させてもらう。
何度も引用するのだが、三木清が「心理学」を批判したことがある。
以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。
2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。
ようするに、心理学という言葉の剽窃であり、しかも厚かましくも商標登録してしまったみたいな感じである。
ネズミを迷路に入れて餌と脅しで走らせて、それが心理学なのだ。あるいは患者に催眠術をかけてプライバシーを覗こうとする出歯亀どもが心理学者と奉られている。
世間の人々は「心理学」こそが人間の心の働きを追求していく学問と思い込んでいるが、心理学会に巣食っているのは知ったかぶりの三百代言ばかりだ。
この「心理学者」の群れが最近では、「脳科学」と模様替えしてあちこちで妄言を振りまいている。

つまり言語学者と心理学者・脳科学者、ついでに文化人類学者は、世の中で信じてはいけない三大「科学」者と言えるだろう。もちろん美容整形医学のようなエセ医学でもないし、優生学者のような悪党でもないので、そこは区別しなければならないが。

閑話休題

この本はそういうソシュール批判を結構気にしていて、いろいろわかったような書き出しで始める。しかし読み進むうちにわかってくるのは、彼も囚われ人の一人であり、「言語学オーム」の一員であるということだ。なぜかと言うと、「言語学」という言葉を使うのに、なんのてらいもためらいも感じていないからだ。

「言語学」が、ことばと言語の研究の広大な分野のほんの一部に過ぎない、ということへの反省がないのだ。「反省だけならサルでもできる」というが、それは本当の反省ではない。

私が思うに…

進化論的に見れば「ことば」の意義はきわめてはっきりしている。ことばこそが人間を作ったのだ。ことばこそが人間を人間たらしめている。もっというと人間の「類的本質」は言語活動と関わって存在するのだ。道具の使用とか「労働の役割」なんでのはチンケなものだ。

パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、より正確には「人間は言葉によって考える葦である」というべきであった。

脳の問題ではもっと端的に明確だ。人間の、とくに大脳部分は言語活動のために発達している。サピエンスにおける大脳の進化はほぼ全て、言葉の発達で説明可能である。

「情緒」とか「本能」ですら、現実には言語の統制下にある。より厳密に言えばせめぎ合いのもとに置かれている。

もし脳を文化論的、哲学的に論じるのではなく、実態的に論じるのであれば、言語学は大脳の進化学として説明されるべきである。



ということで、最後は自爆状態

これでは著者にも失礼なので、もう少し書き足しておく。

言語学はその存在理由を説明することの難しい学問である。
というのが書き出しである。

もうここからピリピリしてくる。「そんな訳はない!」のである。
国語だって立派な言語学だ。ただし、それだけならあえて言語学という必要はないかもしれない。

おそらく近代になって、貿易や外交が盛んになって、世界にはいろいろの言語があるのだということがわかった瞬間に、言語学という学問が成立したのであろうと思う。

しかしその萌芽はもっと昔から、集団と集団との間の交流が始まったときから存在したのだろう。そして集団の境界部に居た人々は経験的に「言語学者」になったのだろう。それが学として成立するのはずっと後のことになる。

おそらく、それは個々の外国語に接する過程を通じて、教会や貿易会社をパトロンとして、一種の「博物学」として始まったのだろう。生物学におけるリンネのような存在ではないだろうか。

世界にいくつの言語があるかは知らないが、それをできるだけ多く採集して、さらに近い言葉と遠い言葉、古い言葉と新しい言葉、混じり合った言葉、さらには絶滅してしまったものまで集めるのが最初の仕事だろう。
つぎにそれを分類して大きなグループに大別して、その特徴をまとめる作業。さらにはそれを発達史的に体系化する作業。
これらすべてが「言葉の博物学」だ。「言語学」という学問名はそうした研究にこそ与えられるべきだ。
それは社会集団の最大の寄る辺であり、象徴であるから、たぶん文化人類学や民俗学と近い関係になるだろう。

言語学には、言語発生学という分野が必ずつきまとう。なぜなら言語は母音と子音の組み合わせから生まれたものであり、それは現生生物としてはホモサピエンスにしかない機能だからである。(鳥の囀りについては勉強中)
だから生物学の一分野としての「ヒト学」の重要な柱を構成するだろうと思う。
これは言語学の分野の中ではさほど重要な分野ではないかもしれないが、生物学者にとってはまさしく核心的な研究分野である。
なまじ「言語学者」がしゃしゃり出ないほうがありがたい分野でもある。

いっそ、そんな棲み分けをしたらどうでしょう。