独ソ戦とソ連側犠牲者に関する年表

概要

独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、民間人が1200万人の計2700万人。これに対しドイツ兵が390万人、民間人が300万人と推計される。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大である。
ソ連兵の戦初期の捕虜500万人はほとんど死亡。またドイツ兵捕虜300万人中、およそ100万人が死亡した。


1941年

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6月

6月22日 ドイツ軍、バルバロッサ作戦を発動。ソ連に奇襲攻撃。

緒戦において赤軍は各戦場で大打撃を被り、敗れ孤立した将兵は百万人単位で捕虜となった。
ドイツ国防軍の捕虜となったソビエト赤軍将兵の約60%、およそ500万名が死亡。この内280万名が開戦後半年以内に死亡。
イギリス軍、アメリカ軍の捕虜の死亡率は3.6%にとどまる。
収容所の多くは収容施設そのものが存在せず、平原を有刺鉄線と監視塔で仕切っただけのものであった、捕虜たちは、穴を掘って凌ぐほかなかった。冬が始まった時、冬が始まった時、捕虜は防寒服などをドイツ軍により奪われたが、これは致命的だった。
その他、ウィキではソ連POWの扱いについて事細かに記載されている。

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  星印のついたユダヤ人の捕虜
6月23日 リトアニア臨時政府成立

6月26日 ドイツ、西ドヴィナ川の橋確保

7月

7月6日 - 第一次スモレンスク攻防戦

7月9日 - ドイツ、旧国境陣地線(スターリン線)突破

7月15日 - ウーマニの戦い

7月21日 ドイツ、モスクワを空襲

7月23日 - キエフ包囲戦開始

7月31日 フィンランド、ソレントの戦闘開始。冬戦争で失ったカレリア地峡の奪還を目指す。

8月

8月 スモレンスク陥落に伴い、中央軍主力を南部に配置する。

8月5日 - オデッサの戦い

8月9日 大西洋会談開催、大西洋憲章の調印

8月23日 - 第一次キエフ攻防戦

8月30日  ウクライナで数十万のソ連赤軍部隊が壊滅。ドイツ軍がネヴァ川に達する。
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ソ連軍捕虜収容所 建物はなく野ざらしだった


9月

9月4日 - ドイツ軍がレニングラード市内、またペレコープ地峡への砲撃開始

9月8日 レニングラード包囲戦の開始

9月12日 - ロストフの戦い
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 シラミ駆除のため裸にされた捕虜たち
9月19日 ドイツ、キエフ入城

9月24日 - セヴァストポリの戦い

9月29日 第1回モスクワ会談開催

9月29日 ドイツ軍、バビ・ヤールにて、一度に最多の犠牲者を出したバビ・ヤール大虐殺開始

9月30日 モスクワ攻略を目指すタイフーン作戦が開始される。

10月

10月1日 - アメリカ・イギリスがソ連に対し武器貸与約束

10月19日 ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫る。冬の泥濘と降雪により、ドイツ軍の進攻止まる

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ソ連軍兵士の冬服は剥奪され、多くが凍死した
10月20日 - 第一次ハリコフ攻防戦

11月7日 モスクワ市が陥落の危機を脱する。アメリカはこれを見て、ソ連に対する武器・物資援助を開始。

11月15日 - ドイツ軍がモスクワ攻勢再開(秋季攻勢)

ドイツ軍の損害は投入兵力の35%、100万人におよぶ。戦死者は20万人に達する。

12月5日 ソ連軍の冬季反攻開始。ヒトラーはモスクワ戦線の死守を命令。

12月6日 - イギリス、フィンランドに宣戦

12月8日 日本が真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスに宣戦布告

1942年

1月

1月8日 赤軍総司令部、北部で反転攻勢命令を発動。ルジェフ方面へ向かって進軍。前線を西へ押し返したが、ルジェフは落ちなかった。

1月18日 ノヴゴロド州の南部ホルムを赤軍主力が包囲。ホルムはレニングラード包囲部隊の唯一の補給基地だった。3か月後に航空支援により包囲が突破される。ナチスはこれを英雄的な闘いとして宣伝。

1月20日 - ドイツにおいて、ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関するヴァンゼー会議の開催

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5月2日 バッケ食料次官が東部での食糧収奪計画を立案。スラブ人(ポーランド人とロシア人)3千万が餓死することを前提としていることから「餓死計画」と呼ばれる。

5月12日 第二次ハリコフ攻防戦。ソ連軍がウクライナ東部で反撃。ハリコフ奪回を目指す。

5月 ルーズベルト大統領、「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と発言。

6月6日 ヒットラーがみずからコミッサール指令を発する。「完全なボリシェヴィキ」と特定された捕虜は即座に処刑。

6月28日 南部戦線でブラウ作戦始まる。ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的とする。

7月  ヒムラーの指示を受けたベルリン大学教授コンラート・マイヤーが東部総合計画(改訂版)を提出。
「餓死計画」をさらに凶暴化。スラブ人3千万から5千万を追放・消滅させると提案。空白地となった東部にドイツ人が移住することになっていた。

東部計画はポーランド東部のザモシチで実験された。ドイツ人10万人が移住、住民は強制労働を強いられ、一部は絶滅収容所に送られた。(ザモシチはローザの故郷)

8月12日 - 第2回モスクワ会談開催

8月22日 ドイツB軍集団、スターリングラードの大部分を確保。

11月19日 ソ連、天王星作戦を展開。スターリングラード西方で補給線を切断し包囲戦に入る。ヒトラーは退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じる。

11月22日 - ドイツ、ドン川及びヴォルガ川より退却

11月25日 ルジェフに対して再度攻撃。ルジェフはかつてのモスクワ包囲網の一部で、ドイツ軍の突出部となっていた。この闘いは時期的にはスターリングラードの戦いと並行して行われ、火星作戦と呼ばれた。ジューコフ大将が総指揮をとった。ソ連軍はドイツ軍の前に大敗北を喫し、兵33万5千人と1600両の戦車を失った(戦死は10万人)。

12月11日 ドイツ軍が、B軍集団の救出作戦を開始(冬の嵐作戦)。ソ連軍はこれを阻止すため、「小土星作戦」を開始

1943年

1月

1月12日 - イスクラ作戦

1月13日 ニコラエフカの戦い

1月30日 ヒトラー、スターリングラードのドイツ軍に玉砕命令。第6軍司令官パウルス元帥はこれを拒否し投降。

典型的な「どっちもどっち」論
下記は、戦記物作者が陥りやすい現場論議である。
ヒトラーは『総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならない』という仮借ない命令をドイツ軍に下しました。
一方でスターリンもソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する『阻止部隊』を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした。
両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈しました。

2月 コーカサス方面に進出したA軍集団は、かろうじて撤退に成功。

2月19日 第三次ハリコフ攻防戦。ソ連軍はドイツB軍集団を攻撃し、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動。

3月

3月1日 - ドイツ軍がルジェフから撤退開始(水牛作戦)。市民のうち9,000人は射殺されたり拷問を受けたり収容所で飢えたりして死んだ。人口の6分の1はドイツに送られ強制労働をさせられた。

4月13日 - カティンの森事件の発覚

7月4日 ドイツ軍がクルスクの突出部へ先制攻撃。東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員、兵員90万人を投入した。予備兵力は皆無だった。

8月23日 - 連合国軍がベルリンを重爆撃

11月3日 ポーランドのマイダネク強制収容所でユダヤ人大量殺害を実行。「収穫祭作戦」(囚人は血の水曜日と呼んだ)。収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された。
マイダネクでは36万人以上が死亡した。その内訳は、22万人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万人が毒ガス・銃殺により死亡した。

11月6日 ソ連、キエフ奪還

11月22日 - カイロ会談開催

1944年

1月

1月20日 ソ連軍がレニングラード市を解放。

2月1日 ソ連軍によるエストニア攻略作戦が展開。エストニアの抵抗組織がドイツ軍に加わることにより、戦線はナルヴァ川で停滞。

5月9日 セヴァストポリ周辺の枢軸国軍が降伏

6月

6月22日 バルバロッサ作戦開始4周年を期して、ソ連軍のバグラチオン作戦開始。陸空一体の電撃戦を前にドイツ中央軍集団は事実上壊滅。

8月

8月1日 - ワルシャワ蜂起

9月19日 フィンランドがソ連とモスクワ休戦協定締結。


1945年

4月25日 アメリカ軍とソ連軍がエルベ川付近で邂逅(エルベの誓い)

4月30日 ヒトラー自殺

5月7日 ランスにおいて、ドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将がドイツ軍の降伏文書に署名し、ドイツが降伏