(4月7日 更新)

我々にとって、たしかに「社会主義の大道」を探ることはだいじなことでしょう。未来社会論というカテゴリーはそれを指しているのだろうと思います。

しかしそれ以上に必要なのは、「社会主義の大道」ではなく「歴史の大道」なのではないでしょうか。
スターリンも見てきて、毛沢東も見てきて、場面によってはそれを反面教師に、それを乗り越える形で、私たちは「社会主義の大道」を学んできました。

ただ綱領(マニフェスト)的見地からみるならば、「社会主義の大道」はもはや主要な問題ではありません。大事なのは、あれこれの路線が社会主義の大道か、それとも脇道とかという「内部論争」ではありません。

大事なのは私たちの目指す「社会主義の大道」が、「歴史の大道」に従っているかどうかです。そのことによって、私たちは社会主義の道が「歴史の大道」であることを主張できるのです。

「歴史の大道」とは何でしょうか。それは20世紀において人類が果たした前進を引き継ぐことです。二つの世界大戦の再現を許さず、平和の道を歩むことです。そして、すべての人間が “人間として平等” であることを認め、人類愛にもとづく世の中を目指すことです。

それが20世紀から引き継ぐべき最大の任務でしょう。

それは世界大戦を引き起こしたものが誰なのかを知ることです。その人類の敵どもが、何を目指して何を行ったのかを知ることです。

同時に、人類の敵と闘い彼らを撃破したのが誰なのかを知り、そのためにどのくらいの血が流されたのかを学ぶことです。

「歴史の大道」は単純に与えられたものではありません。それは私たちに進むべき道として指し示された道なのです。

私たちは「歴史の味方」だった人たちに寄り添い、流された彼らの血を無駄にすることなく、平和と民主主義、人類愛のために戦わなければなりません。これが実践としての「歴史の大道」なのです。

歴史は無謬ではありません。

変革を目指す多くの人たちは、その願いとは別に多くの誤ちを積み重ねてきました。その中には許せない誤ちもあり、甘受せねばならない誤ちもあっただろうと思います。むしろ、正しいものなどなかったという方が正確かもしれません。

肝心なことは、人類は20世紀にどう進歩したのかという視点から流れを見極めていくことです。さまざまな誤りもふくめて、歴史を前進させていく人間の歩みを、全体としてポジティブに受けとめて行くことがだいじなのです。

私たちは審判者ではありません。私たちの仕事は、「社会主義の大道」の視点からあれこれ詮索することにはありません。歴史の審判は歴史がするのです。

メトロノームの針が右に傾いたら反動で左に傾いたら進歩というわけではありません。人間は右足と左足を交互に前に出しながら歴史の歩みを進めていくのです。

だからリアルでしっかりした「20世紀論」を構築し、その上に「21世紀論」と「未来社会」を積み上げなければならないのです。中国批判の上にセメダインで接ぎ木するようなものではありません。