大木毅「独ソ戦」を読んでの感想を記す。旅行後の感想もふくむ。
1.犠牲者数への畏怖を持つこと
ソ連側の犠牲者が2700万人というのは、ほぼ動かしがたい数字である
幾多の研究を歴て、人口統計学的に、死者の数字は強固なものになりつつある。問題は民間人の死をどれほどドイツ軍の責任に帰すべきかという線引の問題のみだ。これを厳密に取れば1千万ほど割り引かれる可能性がある。
この法外な犠牲者の数、それに象徴された「生き地獄」への想像力を働かせること、これがすべての出発点である。
2.2700万人はピスカリョフスキ墓地で実感できる
とはいえ、2700万人という数は私にも実感できなかった。
それがやっと実感できたのが、レニングラードのピスカリョフスキ墓地だ。ここに間違いなく、50万の霊が丸太のように埋められている。
3.誰がこのような死をもたらしたのか?
この数字は、戦争による、戦争につきものの死ではない。
邪悪な信念にとりつかれた人間集団の、邪悪な行いによる過剰な死である。それは犠牲者数におけるドイツとソ連との圧倒的な非対称性に明示されている。
大木さんの本のたすきに書かれた「戦場ではない、地獄だ」というのはこのことを表している。
大木さんの本のたすきに書かれた「戦場ではない、地獄だ」というのはこのことを表している。
だから私たちは、誰がこの圧倒的かつ非対称的な死をもたらしたのかを、決してゆるがせにできないのである。
4.ヒトラーは3つの戦争を同時進行した
大木さんの主張の根幹はここにある。ヒトラーは3つの戦争を同時進行した。
それは第一に通常の純軍事的な戦争であり、第二にイデオロギーに支配された世界観戦争であり、第三に具体的に敵とみなした相手への絶滅戦争である。
5.原理主義にもとづく世界観戦争
アーリア民族を唯一至高の人間と考える思想に基づく戦略。
戦う相手に降伏を許さない、カイライ政権は一切認めない、住民に一切の権利を容認しない、人間としての平等を認めない、などを基本とする。
それは現地住民のモノ扱い、使い捨て戦略に帰着する。
それは現地住民のモノ扱い、使い捨て戦略に帰着する。
大木さんは使い捨て戦略の具体的証拠として、二つの「計画」を上げる。
A)東部総合計画
これは1942年6月に採用された計画で、3つの柱からなる。
まず、ポーランドと西部ロシアの住民3千万人をシベリアに送る。
ついで、労働力として残置する1500万人をゲルマン植民者の奴隷とする。
最後に、各国に点在する民族ドイツ人が開拓者として入植する。
B)飢餓計画
これは食料省が企画したもので、ソ連領内からの食料をドイツ本国に供給することを目標としている。
この計画では、現地住民のうち3千万人が餓死することを前提としている。
6.核心となる絶滅戦争
絶滅戦争の典型はレニングラード包囲戦と全期間、全戦線における系統的住民虐殺である。前者についてはここでは省略する。
後者の典型はハイドリッヒの「機動部隊」(41年6月結成)だ。

それは戦争の全期間を通じて90万人を殺害(主として銃殺)した。その対象はユダヤ人とボルシェビキであった。
ヒトラーはボルシェビキとユダヤ人を同じものと考えていた。41年9月アウシュビッツで最初のガス室が作動したとき、その対象はソ連軍捕虜600名であった。
7.ドイツ軍は共犯者、ドイツ国民は無辜ではない
2700万人を死に至らしめたのがナチスであったにせよ、ドイツ軍がそれに積極的に手を貸したことを看過すべきではない。
ここで大木が例証としてあげるのは捕虜の扱いである。戦時捕虜となったソ連軍兵士570万のうち300万が死亡している。ドイツ軍は捕虜に対してなすべき最低の待遇を与えなかった。
ここで大木が例証としてあげるのは捕虜の扱いである。戦時捕虜となったソ連軍兵士570万のうち300万が死亡している。ドイツ軍は捕虜に対してなすべき最低の待遇を与えなかった。
国民の多くもナチスの蛮行に気づきながら口をつぐみ、ナチス礼賛を続けた。
ヒトラーへの「共犯性」を覆い隠そうとする歴史修正主義は事実をもって葬り去るべきだ。
それとともに、ソ連の人々が「われわれは莫大な犠牲を払ってヨーロッパと世界をナチズムから解放した」というとき、その声にも謙虚に耳を傾けるべきだと思う。
8.チャーチルの決断
チャーチルは最も強固な反共産主義者であるが、最初にソ連に手を差し伸べた人物でもある。
いろいろな理由が挙げられているが、つまるところ
ひとつは、スターリンは小悪でヒトラーは邪悪の象徴と捉えた。すなわち「人類とその歴史にとっての敵」である。
もうひとつ、この世界戦争はナチス独裁の崩壊を目指す闘いである。独ソ戦はヒトラー対スターリンではなく、ファシズム対ソ連人民の闘いだと考えた。
彼は41年8月の大西洋憲章において、ルーズベルトとこの考えを共有した。
この項は大木さんの意見に全面的に同意するものではないが、私達にとって示唆に富む見解である。
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