ここではピスカリョフの記念墓地のパンフレットの英文を基礎に、封鎖博物館の説明文を加えて文章化した。なお後者は05年の「イスクラ友好友の会」の旅行記より拝借したものである。
さらにインターネット上の「Russia Beyond」の「レニングラード戦をめぐる7つの事実」という記事と写真を付け加えた。
私のオリジナルはまったくない。のりとはさみによる編集であることを記しておく。
なお、年表化した包囲戦の経過については、ウィキの「レニングラード防衛戦」を元に、別途記事を起こそうと思っている。


1.レニングラード包囲戦とは

レニングラードの包囲戦は都市の歴史で最も悲劇的なページです。そして第二次世界大戦の歴史の中で最も悲劇的なものです。

当時のレニングラードはモスクワに首都を譲ったとはいえ人口320万人。今の大阪市より多くの人が住んでいました。520の工場群と72万の労働者。ソ連各地の発電所設備の8割を有する大都会でした。

レニングラードの包囲は1941年の10月から始まり、2年半も続きました。包囲戦の全経過を通じて100万人以上の市民が亡くなりました。ほぼ同数の兵士が戦場と市立病院で死亡しました。市外に避難した者からも数万人の犠牲者が出ました。

ソ連の戦争犠牲者の数は少なめに見積もられてきました。レニングラードでも公式発表は死者67万人ですが、最近の研究では110万人程度と推計されています。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎をふくむすべて)を上回る数です。

世界の戦争の歴史で、レニングラードほど多くの生命を捧げた都市はありません。


2.ナチス・ドイツの最初の標的

ナチス・ドイツの指導者は、攻撃の最初の標的としてレニングラードを選びました。ヨーロッパから最も近く、政治的・経済的・戦略的に重要な場所だったからです。ヒトラーは熱狂的なナチス党員を司令官に選びました。

それはドイツ軍の「バルバロッサ作戦」と呼ばれる東部侵攻計画の柱の一つでした。

レニングラードを目指す北部軍の特別行動部隊は、6月末リトアニアに入ると首都カウナスで1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺しました。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を射殺します。

ドイツ軍北部軍は1日30キロの速度で進攻、7月10日にはレニングラード州に入りました。レニングラードを防衛するソ連軍には兵士も武器も不足していました。

スターリンは将軍たちを粛清するしか能のない男で、レニングラード防衛軍の司令官をモスクワに召喚すると即刻銃殺刑にしてしまいます。本当は真っ先に自分の頭に向かって引き金を引くべきでした。


3.狭まるレニングラード包囲網

ソ連側では数十万のレニングラード市民義勇部隊が突貫工事で縦深壕を設営、これでドイツ軍機動部隊の動きを止めました。レニングラード南方は沼沢地帯が広がり機動戦が展開しにくい地形です。ここに潜んだソ連軍は原始的な白兵戦を挑み、ドイツ軍に多大な出血を強いました。

人々の抵抗は、ドイツ軍にロシア人蔑視と敵視を強めました。「捕虜の列車輸送は車両が汚染される」とし、禁止しました。ナチの「虐殺部隊」は地方の有力者、知識人も「浄化」の対象とするようになりました。

9月はじめ、ドイツ軍はレニングラードの東方の町、ラドガ湖畔のシュリッセンブルクに出て、レニングラードにつながる陸路を遮断しました。街の周囲は事実上、完全に封鎖されてしまいました。
Siege_of_Leningrad_Eastern_Front_1941_06_to_1941_12
   ドイツ軍の侵攻とレニングラード包囲


4.ヒトラーが望んだのは、勝利ではなく絶滅だった

ヒトラーはレニングラードを攻略するのではなく、この都市を地表上から抹殺しようと考えていました。ヒトラーはつぎのような訓令を発します。
レニングラードを密閉せよ。そして飢餓によって弱体化せよ。春には市を占領し、生存者を排除し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする
ドイツ軍参謀本部が作成した「C‐124秘密文書」には、こう書かれています。
…2 総統はサンクトペテルブルクを地表から拭い取ることを決定した。
…4 もし市内の状況が変わって市民が降伏をもとめた場合、彼らの求めは拒否される。なぜなら補給や食料を提供することに関わる問題は、我々によって解決できないし、解決すべきでもないからだ。
われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。
この目標に沿って、ドイツ軍司令部は集中的な爆撃と砲撃を開始しました。水道・電力などの民生施設と食料倉庫が集中的に攻撃されました。こうして市民は水なし、食料なしで生活することを余儀なくされました。
爆撃を受け避難する市民
          爆撃を受け避難する市民
包囲中、市内では15万個近くの砲弾、10万7千個以上の焼夷弾および高性能爆弾が使用されたと推定されています。その結果、市街の500万平方メートル以上が破壊されました。それは建物3つに一つの計算になります。

ドイツ軍はフィンランドと秘密協定を結んでいました。それによると、空襲は街の周辺部から始まり、市民を徐々にネヴァ川両岸の中心部に追い込み、最後に集中爆撃で一人残らず根絶やしにする予定でした。


5.次々に生活が追い込まれていく

一番つらいのは爆撃や砲撃ではありません。なにもない街では生きていくこと、生活することが一番つらいことなのです。
家にも街路にも電気はありません。川岸から氷の穴まで行くのは大変でした。輸送用燃料がないので、どこへ行くにもソリを引いて歩くしかありません。
滑りやすいので、氷穴の脇でひざまずいてバケツで水を掬いました…。飢えで衰弱していたから、水をバケツに掬ってもそれをうまく引き上げられません。家に持ち帰ると水は凍っていて、それを解かして、煮沸して使いました。
壊れた水道から水を
          壊れた水道から水を汲み出す
この年は記録的な寒さで、冬には気温が零下38度まで下がりました。暖房がないのでストーブで床材・家具や本・アルバムなどが焼かれました。

逃げようとする市民は容赦なく射殺されました。射殺するドイツ兵士もやりきれません。そこでドイツ軍は多数の心理カウンセラーを陣地に常駐させました。そして「劣等人種に対する同情は不要である」というナチスのイデオロギーを強力に注入しました。


5.そして飢餓地獄が襲った

包囲が始まった最初の年、秋から冬にかけて最も恐ろしい問題は飢餓でした。まず食料と食料の配給が減りました。

最初は包囲戦開始前の9月2日でした。このとき市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められました。
やせ衰えた家族
             やせ衰えた家族
11月20日から配給はさらに減りました。毎日のパンの配給は事務員、扶養家族、および子供で125グラムに減少しました。 労働者のためには250グラム、前線の兵士のために500グラムが確保されました。

パン以外の製品はほとんどなくなりました。そのパンは “偽物のパン” と呼ばれました。半分は小麦粉ですが、残りは残飯、野草、壁紙などでした。にかわや靴、革のベルトを煮て食べました。耐え難い臭いだったが、塩・コショウ、酢などを加えて飲み込みました。
10歳の男の子は「猫を捕まえた。殺して次の日に食べた。とても美味しかった」と書いています。

ある画家はこう書いています。恐ろしさをある種の気高さにまで昇華しています。
寝台にごろりと横になる。生きる意欲が失せていく。…手紙は誰からも来ない。雪が降っている。みんな死んでいき、雪に被われるだろう。

恐ろしいのはこの飢餓作戦がきわめて科学的な予測の下に、ドイツ人らしい几帳面さで実施されたということです。
軍の諮問を受けたミュンヘン栄養研究所は、飢餓作戦の計画を提出しました。この計画では市民を市内に留め封鎖を継続すれば、市内は飢餓状態に陥り、人々は半年以内に絶滅するだろうと報告しています。ここにナチスの精神の真髄があります。

6.ターニャの日記

この頃、12歳の少女、ターニャ・サヴィチェワが日記を書き始めました。その日記によれば、翌年5月にかけて肉親全員が次々と死んでいきました。

41年12月28日の午前12時  姉ジェーニャが死んだ。
42年1月25日の午後3時 おばあちゃんが死んだ。
3月17日の午前5時 次男リョーカが死んだ。
4月13日の深夜2時 ヴァーシャおじさんが死んだ。
5月10日の午後4時 リョーシャおじさん
5月13日の午前7時半 ── ママ
サヴィチェフ家は死んだ
みんな死んだ
残ったのはターニャだけ
Tanya_Savicheva
44年5月 ターニャはシャトコフスキー病院に入院。1ヶ月に死亡。

市民の声はこのページに数多く記載されています。ぜひご覧ください

街路、工場、そしてアパートで、家族ぐるみの餓死が続いていきました。872日の封鎖の間に100万人が餓死・凍死しました。毎日絶え間なくどこかに砲撃ああり、時々爆撃があって、そのたびにあちこちで死人の群れが発生しました。

まさにこの世の地獄です。ただそれがインフェルノと異なるのは、ナチスという人間集団が作り出した人工の地獄だということです。

第二次世界大戦の現代史的本質は独ソ戦に集中的に表現されています。その特徴を一言で言えば2千万を越える過剰死と過剰殺戮です。その典型がレニングラードにおける市民の餓死です。そしてその典型がターニャとその家族です。

その重さから、子供用のソリが庶民の主な輸送手段になりました。人々はソリを使って水や物を運び、…死体を埋葬地に運びました。毎日、朝日が昇ると、街には白いお棺を載せた橇の長い行列が続きました。
夫をそりで運ぶ
          衰えた夫をソリで運ぶ女性

7.埋葬する場所もなくなった

1942年1月、レニングラードの墓地という墓地が死体で溢れました。市当局は、郊外のピスカリョフスカ駅付近の空き地を確保して、大量の埋葬を許可することにしました。

埋葬は毎日行われました。3千人から1万人が100x10メートルほどの塹壕のような穴に投げ込まれ、一杯になると埋め立てられました。

1942年2月20日は最大の埋葬日でした。一日だけで10,043人もの市民がピスカリョフスキに埋葬されました。
共同墓
    この墓石の後ろの帯塚に千体ほどの遺骨が埋葬されている

7.人々は抵抗を続けた

そんな中でもラジオ放送が続けられました。各アパートに一つラジオが置かれ、毎日2時間くらい放送が流れました。

ラジオで流された詩の一節です。
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。
私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
放送のない間も、ラジオからメトロノームの音が流れ続けました。それは「この音が聞こえる間、レニングラードは生きている」という意味を持っています。

止まってしまったら、それはドイツ軍が放送局を襲ったことを意味します。この音はいまでも深夜の放送で流れ続けています。

メトロノームの音は街頭でも放送された。遅いときは注意報で、速い時は緊急警報でした。

路上には1500ものスピーカーが設置されました。警報は計3740回に及びました。余裕があるときは管弦楽や詩の朗読も放送されたそうです。
路上の拡声器
             路上の拡声器
このような状況にあっては、生きること自体が闘いでした。学校で学ぶこともそうでした。エルミタージュの地下にも学校があって、こどもたちが学んでいました。

寒くてインクは凍りました。子どもたちは自分の手でインクを温めて勉強しました。みな、学校に行きたかったのです。

解放されるまでの間、レニングラードは街ぐるみ前線で、子供もふくめて市民一人一人が兵士でした。人々は農業の経験はありませんでしたが、多くが知識人でした。勉強し経験交流しました。イサク広場の農園では立派なキャベツが出来上がりました。

42年8月、レニングラードの大ホールではレニングラード市民ショスタコービッチの第7交響曲が初演されました。その一部はラジオ放送されました。
団員は徴兵され最前線で戦っていた。演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器に持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。(松浦晋也のL/D
43年1月、レニングラード防衛軍が封鎖突破を目指すイスクラ作戦を開始しました。5日間の激闘の末、ドイツ軍の包囲網を突破し、内陸との回廊の確保に成功しました。
これでレニングラードをふくむ北部戦線は大きな転換期を迎えました。しかしその後も、ドイツ軍の圧力は依然として続きます。

44年1月15日、ロシア北部の解放を目指す一斉攻撃が始まりました。すでにすべての前線で戦闘態勢の維持が困難となっていたドイツ軍は戦闘力を喪失。レニングラード周囲を撤退し70キロ西方へと敗走しました。
解放の日

8.ピスカリョフスキ墓地のいま

レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲があげられました。包囲が始まってから実に872日目のことでした。

しかしその傷跡はあまりにも深いものでした。人々は遺体を集め、街を清め、墓地を整備しました。

いまこのピスカリョフスキ墓地には186の共同墓があります。そこにはこの町で暮らした42万人以上の市民が横たわっています。彼らは空腹、爆撃、砲撃で亡くなりました。そしてそのほかに7万人以上の兵士、レニングラード防衛隊の隊員が葬られています。

dairituzou
        公園の最奥にある女性像、寒かった!

市内には他にも多くの墓地がありますが、ピスカリョフスキの埋葬者が群を抜いています。

(このあと、墓地の整備の歴史が語られているが、省略します)