「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」の学習ノートを作ろうと思ったが、途中でやめた。

そもそも冒頭論文の李成市「概説 古代日朝文化交流史」をパラパラとめくってみて、これは面白そうだと買ったのが、家に帰ったらおもしろいのは概説だけだったという笑い話だ。

前記記事では意気込んで、
やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。
と書いた手前、李成市さんの文章だけはちょっと説明しておく。日本の学者というのは在日韓国人の研究者で、日本で学問的素養を積んだという意味である。

はじめに

古代における日朝関係は多元的・並行的である。
日朝関係というより朝鮮三国+倭の4か国関係史と考えたほうが良いのかもしれない。
その際、任那・伽耶の扱いが微妙になるが、事実に即して慎重に議論していくことにする。

というのが李さんの所論、大いに同感である。

1.百済と倭国の交流

高句麗が漢城に都を構え南進してきた。
漢城付近に住む人々が、高句麗の南進に対抗するために百済国を形成した。

漢城というのが曰く有りげだ。平壌というなら旧楽浪郡であり漢人と交わった現地人が住んでいたはずだ。その時漢城付近が楽浪の一部だったか、帯方郡だったのかは微妙だ。

2.高句麗と倭国との交流

好太王の頃は倭と南朝鮮の覇を争ったが、6世紀の中頃には落ち目になって、新羅に漢城(ソウル)を奪われている。

おそらく百済と反新羅連合を組み、百済のよしみで倭国にも使節を派遣していたのだろう。ただしそれは倭王朝がすでに消滅し大和王朝が倭国の支配権をにぎったのちである。

この他多くの高句麗人が聖徳太子の元を訪ねた
とされている。聖徳太子は百済とつながる蘇我氏と対抗しようとしたと言われる。
経路は不明だが、日本海側領土の大半はすでに新羅に制圧されていることから、反新羅連合を組んだ百済からであろう。

3.新羅と倭国との交流

591年に新羅が倭典(倭国との外交機関)を設置したという記載があるが、その後はすべて白村江以降の話になる。

その姿は、憎々しいほどに余裕たっぷりである。表向きは日本を立ててはいるが、任那を滅亡させ白村江でも日本軍を壊滅させ、唐の大軍を撃退した新羅の実力は揺るぎないものがある。

それに引き換え、日本は君臣の礼を強要したり、駄々をこねて使節を追い返したり、やることがガキである。いまの首相に似ていなくもない。

とりあえず、いまの私の関心域からは外れるので、内容は省略する。

以下は私の感想だが、

一つは、多元的・並行的に加え、重層的であるということも付け加えたほうがいいのではないか。

半島では古朝鮮族が基本的には駆逐され、消滅している。おそらく南部では日本人に近い遺伝子組成の人々がいて、それが三韓の消失に時をあわせて、記憶の底に沈んでいったのではないか。

それに代わり、中国東北部に出自を持つ人々が多数を占めるようになった。

三韓→三国時代→新羅という半島南部の政治過程は、その民族移動過程の上に乗っかっているのではないだろうか。