やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。


古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」という題で歴博のシンポの記録のようだ。

とりあえず下記年表に追補する形でファクトを拾っていくことにする。


これは下記記事の増補版となっている

ただし、「抜き」とはいっても日本書紀に対応する事実があるものは、注記の形で載せている。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

189頃 80年の戦乱の末、和平が成立。卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

 楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

 当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者はもとは扶余(高句麗北方)からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。公孫淵は斬首に処せられる。魏はさらに海路南進し、楽浪・帯方の両郡を魏の直轄地とする。倭と韓(東濊・韓族)は帯方郡に服属する。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。大夫伊聲耆、掖邪狗らが魏に赴く。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。
(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者の載斯烏越から狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は帯方郡所属の武官、張政を邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。張政は台与を励ます。台与は即位当時13歳とされる。(張政は狗奴国の撃退、卑弥呼の死、後継男王の失敗、台与の就任のすべてにかかわったことになる)
248 国中遂に定まる。壱與は張政らの還るを送らしむ。さらに張政に掖邪狗らの使者を同行させ朝貢。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。この後、倭王讃による朝貢(413)まで中国の史書から倭国の記載は消失する。(この朝貢は日本書紀に神功皇后の挙?として示されている)

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。
三国時代地図

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

346 近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗と戦う。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐した高句麗兵を急襲。5000の首級を挙げる。

371年 近肖古王の率いる百済軍、高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させる。

372年 百済は東晋に朝貢。鎮東将軍・領楽浪郡太守に柵封される。

375 百済、「七支刀」を作成し、倭王に贈与する。これが石上神宮に伝存するものである。

古事記には応神天皇の時代に百済の照古王が和邇吉師を貢上。和邇吉師は論語十巻と千字文一巻を持参したとされる。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

405 百済王死去。倭国で人質となっていた王子が帰国し即位。

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

420 高句麗が宋に朝貢し「征東大将軍」、百済も朝貢し「鎮東大将軍」を下付される。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。

427 高句麗、平壌へ遷都。王都を大城山城に定める。百済に圧力をかける。

428 倭国、50人からなる使節団を百済に派遣。(三史)

429 百済王、妹の新斉都媛(池津媛)貢進する(日本書紀応神紀)

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

435 高句麗、(宋ではなく)北魏に入貢する。

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

439 北方民族の鮮卑が華北を統一。北魏を建てる。

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

471 稲荷山鉄剣がこの年作成される。(辛亥年)

472 百済、北魏に入貢し、高句麗に対する帥を乞う。

475 高句麗が百済の首都、漢城を占領。蓋鹵王を殺害。百済はいったん滅亡。その残党は公州の熊津まで後退し、新たに都とする。

477 百済で佐平、解仇が反乱。文周王を殺して三斤王を擁立。翌年にはさらに三斤王に対しても反乱を起こすが失敗、鎮圧される。

477 倭国、宋に遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。
これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)日本書紀ではこの2年後に雄略は没している。

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。
「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
上表文では朝貢が滞った理由として①高句麗が百済を攻めるために朝貢路が確保できない。②高句麗との戦闘準備中に父済と兄興が急死した、ことをあげている。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

481 高句麗軍がさらに南進。百済・伽耶・新羅の連合軍は泥川の闘いで撃退する。

487 紀生磐(きのおおいわ)宿禰、任那で高句麗に通じて三韓の王になろうとする(憲宗紀)

491 高句麗軍、新羅に攻めこむ。百済は新羅に加勢して高句麗軍を撃退。

496 伽耶が新羅に白雉を送る。

498 百済が済州島(耽羅)を支配下に入れる。(これは日本書紀では継体2年とされる)

501 百済、新羅に対する警戒を強め、国境に柵を設ける。

502 武寧王が百済に戻り即位する。新羅を一大国と認め、連携して高句麗に対抗する戦略をとる。

502 南朝に斉に代わり梁が成立。北魏の混乱・衰退に乗じて華北に進攻。

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)。伽耶諸国の荷知王も梁に遣使。

502 百済の武寧王も梁に朝貢。梁の「支持」を背景に伽耶諸国への進出を図る。

502 倭国、百済の「要請」を容れ、任那4国を割譲(百済本紀に基づく記述とされる)。

503 麻立干、智証王を名乗り新羅を正式国名とする。

503 伴跛(はへ)国、百済の一地方を奪取。伴跛は任那の一国であり、4国の百済割譲を肯んじなかったとみられる。

505 伴跛国、倭国と敵対し戦火を交えるに至る。

505 新羅の第一次対外膨張が始まる。海岸沿いに北上。

513 百済より倭国へ五経博士が来る。五経博士は3年間の交番制で、段楊爾、漢高安茂らが来日する。後に五経の他、医、易、暦などの博士に拡大。

517 近江毛野臣の軍が派遣される。(継体21年の事項。継体初年を497と仮定した場合)

521 新羅が百済に伴われ、梁に初の遣使。

522 新羅が伽耶を影響下に置く。新羅貴族の娘が伽耶国王に嫁す。

523 新羅の法興王、南方の支配域を巡行。伽耶国王はこれに出向き拝謁。

524 新羅、北方の蔚珍(悉直国)を併呑し悉直州を置く。(金石文あり)

新羅の膨張

532 金官国(金官伽耶)が新羅に投降。

538 百済の聖明王、都を熊津から泗沘(扶余)に移す。「周書」、百済に僧尼・寺塔甚だ多しと伝える。

538 仏教公伝の年とされる。552年説もある。

552 高句麗、これまでの大城山城に代え、長安城の築城を決定。新羅の進出に備えたものとされる。

553 新羅、漢山地域(高句麗が百済より奪った地域)を奪取。新州を置く。556年にも百済、伽耶の領土を侵食。

553 日本書紀によれば、倭国が百済に馬、船、弓箭を贈り、卜書、薬物の送付を要請。

554 百済と加良が新羅の管山城を攻撃するが敗退。百済の聖王が戦死する。

554 倭国、百済救援のため新羅に出兵する。

561 新羅、安羅の波斯に築城し、倭軍と対決の構え。

562 大伽耶国が新羅に滅ぼされる。伽耶諸国全域を新羅が征服。

564 新羅、北斉に遣使し冊封される。

568 新羅、東海岸を北上。現咸鏡南道まで版図を拡大。

586 高句麗が大城山城に代え長安城に遷都する。

589 隋が中国を統一。

591 新羅に倭典(倭国との外交機関)が設置される。

595 高句麗の嬰陽王、僧慧慈を日本に派遣。慧慈は20年にわたり聖徳太子に近侍した。
冠位十二階は高句麗の制度を輸入したものと言われる。