レニングラード封鎖 その経過

概況

当時、レニングラードは319万人の人口を擁し、520の工場群と72万の労働者を有していた。またソ連の発電所設備の8割が集中していた。

飢餓や砲爆撃によって100万人以上の市民が死亡する。公式発表は死者67万人。最近の研究では110万人程度と推計されている。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。

さらに兵士約50万人が戦死・病死している。

ドイツ軍は、「科学的な方法による破壊」作戦を狙った。これはミュンヘン栄養研究所ツィーゲルマイヤー教授の提案によるもので、兵糧攻めにより制圧する計画である。

国防軍最高司令部の訓令。
レニングラードを密閉せよ。春に我々は市を占領し、レニングラードを平らな地面にする。降伏を要請する声が出ても、それは拒否される。われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。

時刻表

レニングラードの占領のために北方軍集団が編成される。第18軍、第16軍、第4装甲集団の3個軍で構成され、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュヒラー将軍は熱狂的なナチス党員であった。

6月26日 第16軍がリトアニアの首都カウナスに入る。同行した特別行動部隊は1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺する。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を殺害。

6月26日 フィンランドが宣戦を布告し、冬戦争の際に奪われたカレリア地方へ入る。しかし旧国境を越えての侵攻は控える。

7月9日 機甲部隊、レニングラード南西100キロのルーガ河に到達。ルガ防衛線の攻防が始まる。You Tube 「独ソ戦 レニングラード」による。

7月13日 ドイツ軍、ルガに橋頭保を確保。その後沼沢地での遊撃戦で消耗し、いったん橋頭堡の強化に注力する。

7月中旬 レニングラード防衛の最高司令官パヴロフ。解任され即座に銃殺となる。

7月中旬 文化省が、レニングラードの各機関に疎開命令。フィルハーモニーはノボシビルスク、大学はサラトフ、音楽院はタシケントへ移動となる。大学と音楽院は教授と生徒の半数以上が残った。ショスタコービッチも残留し消防隊に加わる(ひの)

7月18日 食料が配給制になる。大規模な疎開作業が開始され、子どものほとんどはウラルへ移動する。

7月21日 ヒトラー、北方軍司令部に出向き4週間以内のレニングラード陥落を指令。

7月後半 ドイツ軍第16軍が機甲部隊に追いつく。各部隊で投降した赤軍捕虜を射殺する虐殺事件が発生。軍司令部はユダヤ人と政治委員に加え、ソ連の高官、財界の重鎮、地方の有力者、知識人を「浄化」の対象として虐殺した。

8月2日 ドイツ軍装甲部隊が進撃を再開。ソ連軍は機甲師団への補給路をイリメン湖で切断しようと図る。ドイツ軍は激戦の末これを排除。

8月13日 ノヴゴロドが陥落。ルガ防衛線が突破される。

8月18日 ヴォルホフ川の鉄橋が空襲で破壊され、モスクワ方面との連絡が絶たれる。

8月21日 ルガ防衛線が突破される。レニングラード中心部から60キロのガッチナが最後の防衛線となる。

8月30日 レニングラードにはいる鉄道駅ムガーがドイツ軍により占領される。これが900日封鎖の始まりとなる。

8月末 市当局の人口推計。市の人口は開戦前と変わらず300万人。50万人が疎開したが、バルト3国から同じ数が避難してきた。

包囲戦の開始

9月08日 最初の大規模な空襲。30機編隊で焼夷弾および爆弾10万7千発以上を撒き散らす。「家屋の暖房用に焼夷弾をお届けします」とのビラが撒かれた。

9月8日 砲撃ではガス・水道・電力の供給施設などへ攻撃が集中され、砲弾15万発が打ちこまれた。これによりバダーエフ食料倉庫が全焼。

9月08日 レニングラードと内陸部を繋いでいたラドガ湖畔のシュリッセルブルクが陥落。包囲網が完成する。本土との陸上連絡は完全に途絶する。ここを初日として872日もの間、封鎖状態に置かれる。

9月11日  レニングラード防衛司令官ヴォロシーロフ元帥が解任される。ジューコフ上級大将が後任となる。ジューコフのモットーはいつも『後退する兵、士官は銃殺』であった。






9月中旬 ドイツ北方軍のレープ司令官は、毎日午前10時~午後7時の市内砲撃を指示。脱出を図る民間人は即刻射殺に処することとなる。(彼は戦後も善人扱いされ、天寿を全うした)

9月12日 食料備蓄はバダーエフ倉庫に集中されたままであった。このため食料は一瞬にして失われた。

食料の残量は以下の通り
穀類・小麦粉 35日分
えん麦・粉物 30日分
肉類・家畜 33日分
油脂 45日分
砂糖・菓子類 60日分

9月末 石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木。
水くみ
マイケル・ジョーンズ著 松本幸重訳
路面電車は氷に覆われて立っている。…白い囲い板で覆われた、死体を載せた橇の長い行列が行く。
接着剤、セルロース、松葉、靴底、革のベルト、その他何でも食料になった。
膠、ゼラチンをゆっくり火で数時間煮沸し、塩コショウ、香辛料、酢、マスタードを加えて食べた。臭いは耐え難かった。

17歳の看護婦レーナの食べたい物リスト
大きな黒パン。
様々な具材をつめこんだピロシキ。
サワークリームをたっぷりとかけたペリメニ(ロシアの水餃子のような食べ物)。
チーズにマカロニ、ソーセージ。
ジャムをのせたクレープに、分厚いホットケーキ……(みすず書房「レーナの日記」)

10月 ドイツ軍、モスクワ後略に目標を変更。レニングラードは包囲による飢餓作戦へと変更。ジューコフはモスクワ防衛のため異動する。

11月20日 ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が活動を開始。翌年4月まで通行可能となる。「命の道」と呼ばれたが、ドイツ軍の攻撃にさらされる「死の道」でもあった。
氷上輸送
             ラドガ湖の氷上輸送
1942年

1月 最悪の飢餓状態を迎える。パンの配給券がとまった。暖房が止まった状態で気温マイナス30度まで下がり、1日2万人の死者がでる。

オリガ・ベルゴーリツ
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
3月 ショスタコーヴィチが作曲した『交響曲第7番 レニングラード』が包囲下で初演される。(なぜバルトークはこの曲を笑いものにしたのだろうか)

5月 ソ連軍、レニングラード解放を目指す攻勢を開始。攻勢は失敗に終わり、第2突撃軍が投降する。

6月 ゴヴォロフ砲兵中将がレニングラード方面軍司令官に就任。

夏 ラドガ湖底に29kmにわたる石油パイプラインが敷設された。

8月 ドイツ軍、マンシュタイン元帥の増援部隊をレニングラードに配置。ラドガ湖補給路の切断を狙う。双方が攻勢をかけるが、いずれも失敗し戦線は停滞。


1943年

1月12日 シュリッセルブルク回廊の確保を目指すイスクラ作戦が開始された。
プーシキン市の鉄道駅での攻防戦



1月17日 内陸との回廊が確保され、モスクワへの鉄道路線が奪還される。レニングラード市当局は封鎖の解除と解放を宣言。封鎖後872日にして、独ソ戦は大きな転換期を迎える。

2月5日  ネヴァ川左岸を通る臨時鉄道が開通。ドイツ軍の砲兵陣地を通過するため、「死の回廊」とも呼ばれた。

1944年

1月15日 レニングラード・ノヴゴロド攻勢が始まる。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走。これが事実上の解放となる。