洋楽レコード業界の戦後史

この文章は下記の論文の要約・紹介である。
著者の生明さんはかなりの洋番マニアらしく、うんちくを披露している。生明さんには申し訳ないが、そちらのほうが面白い。
詳細・正確に知りたい人はリンク先へどうぞ。

広島経済大学経済研究論集 第31巻第4号 2009年3月


1.レコード生産の再開と社名復活

昭和20年10月、占領軍は蓄音機やレコードの生産を許可した。

日本を代表する2つのレコード会社、日本コロムビアと日本ビクターは、戦争中に横文字名称禁止令を受けて、それぞれ日蓄工業と日本音響株式会社に解消していた。

戦災を免れた日蓄工業(日本コロムビア)は、早くも10月、ポータブル蓄音機の生産・販売を再開した。また邦楽レコード(SP盤)も生産を開始した。

さらに12月には、洋楽のポピュラー盤,翌46年1月には洋楽のクラシック盤も発売を開始した。

日本音響株式会社(日本ビクター)は工場・倉庫が戦災で焼失したために遅れを取った。

しかしコロムビアの工場にレコード盤のプレスを委託して、昭和21年9月には邦楽の発売に漕ぎ着ける。

それより前、昭和20年12月には日本ビクターの名称に復している。また日蓄工業も昭和21年4月に日本コロムビアに戻した。

2.コンテンツの不足

この段階での音源は、戦前に支給された古い原盤を使用した再発売に過ぎなかった。

昭和20年12月、日蓄工業はアンドレ・コストラネッツ楽団の「ビギン・ザ・ビギン」と「眼に入った煙」(煙が眼にしみる)のカップリング盤を発売したが、
原盤は戦前にアメリカ・コロムビアから支給されていたものである。

昭和21年1月から発売されたクラシック盤も,ワインガルトナー,メンゲルベルク,ワルターなど戦前のコロムビア盤の再発売だった。

3.ライセンス制度への移行

コロムビア,ビクター両社とももとはCBS,RCAの子会社であったが、戦争中は完全に資本関係を断絶していた。

戦後も日本の厳しい保護政策のもとで戦前への復帰は困難であり、RCAとCBSの洋楽2大メジャーは経営を止めたままであった。そこで見いだされたのが「米国吹込み原盤輸入契約」制度であった。

昭和22年にコロンビアが米CBS・コロムビアと,ビクターは少し遅れて昭和25年に,米RCA ビクター社とライセンス契約を交わした。

4.初期のヒット曲…ポップス

昭和24年9月、コロムビアはポピュラー音楽は従来のM盤シリーズに代わりL盤シリーズが発売され、米国の戦後の作品が紹介されるようになった。

うんちく ①
L盤シリーズとは L1000番からのレコード番号が使われたからそう呼ばれるようになったものである(L盤の Lは,Limitedの Lという説と,M盤より1ランク上の Lという説がある)。

いっぽうビクターは、 S 盤シリーズを設けてポピュラーのヒット曲の発売を開始した。S 盤の S は Specialの S といわれる。

このコロンビアの L盤とビクターの S 盤は、 SPレコードの時代における洋楽ポップスの源泉となった。

初期の L盤からはダイナ・ショアの「ボタンとリボン」などの大ビットが生まれ,S 盤からはプレスリーの連続ヒットなどが生まれた。

5.初期のヒット曲…クラシック

コロムビアは昭和24年,新契約に基づく初の新譜として,ワルター指揮ニューヨーク・フィルのベートーヴェンの「運命」を発売した。

ビクターも昭和25年8月,ハイフェッツとビーチャム指揮のロイヤル・フィルによるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を発売した。

以後両者が毎月新譜を発売するという体制が整った。


6.第三勢力とライセンス制(戦前)

戦前、ビクターとコロムビアは,原盤使用のためのライセンス契約は結んでいなかった。なぜなら両者は実質的には海外企業の日本支社だったからである。

両社は昭和2年に洋楽の原盤を持ち込んでプレスをするようになった。

これに対抗する勢力となったのがポリドールとキングレコードである。

日本ポリドール蓄音器商会は、独ポリドールの輸入を扱っていた阿南商会等が設立した、日本資本の会社だった。

大正15年、阿南商会の阿南正茂と,銀座十字屋の鈴木幾三郎がドイツに渡り,ポリドールの製造元であるドイツ・グラモフォンと折衝した。

その結果、ドイツ原盤の日本におけるレコード製造・販売について許可された。このライセンス契約に基づいて、昭和2年に会社が立ち上げられた。

これに続いたのがキングレコードである。
キングレコードは昭和11年(1936)に講談社のレコード部門として独立した。このときテレフンケンとのライセンス契約を結んだ。

テレフンケンは1932年にウルトラフォンという会社を引き継いで生まれた。グラモフォンやコロム
ビアには及ばなかったものの,ベルリン・フィルやアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団などのオーケストラ,ベートーヴェンの交響曲などをカバーしていた。

このことから、キングレコードはビクター,コロムビア,ポリドールに次ぐ第4勢力となった。

うんちく ②
生明さんのうんちくはポリドール、キングに続くというか続けなかった勢力も取り上げている。
日東蓄音器株式会社は西日本の雄と言われたが、ライセンス契約が不調に終わり、命運尽きたらしい。
東京レコード製作所は昭和9年、アメリカのジャズ・コード「ラッキー」と契約し評判となったが、社長が死亡しコロンビアに吸収された。
この他にも西宮市の内外蓄音器商会、名古屋のツルレコードという会社が洋盤をライセンス生産している。
さらにドイツの会社の日本支社というかたちで、は日本パーロフォン,日本オデオンという会社も存在したらしい。

7. アメリカン・ポップス黄金期

1950年代は、アメリカン・ポップスの黄金期であった。それらの音楽はレコードだけではなく,進駐軍のラジオ放送,朝鮮戦争に赴くミュージシャンたちのライブ公演を通じても流れ込んだ。

音楽も含めアメリカ文化の影響力は圧倒的で、レコード市場でも大きな比重を占めるようになった。

日本コロムビアのL盤,日本ビクターのS盤だけにとどまらず、多くのライセンス契約が締結され,アメリカのヒット曲が日本でも続々と発売された。

戦前からのキング,ポリドール,テイチクに、53年レコード事業を開始した東芝も加わり、6社の競争体制となった。

アメリカ側のレコード会社はあまりに煩雑なため省略する。原文をお読みいただきたい。

ヒット曲も量産された。
男性歌手ではペリー・コモ,ナット・キング・コールなど。
女性歌手ではペギー・リー,ダイナ・ショア,ジョー・スタッフォード,ドリス・デイなどである。

8.ジャズなどの発展と群小レーベルの割拠

1940年代から60年代にかけてはアメリカのジャズの発展期・隆盛期でもあった。多くのジャズ専門のレコード会社が誕生し,後世に残る名演名盤を送り出した。

代表的なレーベルを設立順に挙げると,ブルーノート,アトランティック,プレスティッジ,リバーサイド,ヴァーヴ,インパルスなど。

ロックンロールも誕生した。ビル・ヘイリー、チャック・ベリーやリトル・リチャードなどが一つのジャンルを築いた。そしてプレスリーがブレイクして大スターになった。

その後ブリティッシュ・ロックが盛んとなり、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどが生まれる。

アメリカでは哲学的なメッセージとクラッシック音楽を土台とするプログレッシブ・ロックが大きな影響を与えた。

黒人層の音楽が白人にも受け入られるようになり、メジャー化した。リズム・アンド・ブルースがソウル・ミュージックになり、70年代のディスコサウンドにつながって行く。(このくだりは「へぇ?」)

さらに1960年代のフォークソングも一つのウェーブとして浮かび上がった。その中心にいたボブ・ディランはロック歌手に変身する。

これらのレーベルはマッチのラベルのごとく多様で錯綜している。もはやオタクの世界であるので、ここでは省略する。

9.日本と欧米レーベルの整理統合

70年代に入るころから、アメリカのレコード産業に変化が生まれてきた。ポピュラー音楽のレーベルが少しずつ統合され始めた。

そしてWEA、MCA 、ポリグラムの3社の誕生につながった。これに戦前からのCBS コロムビア,RCA ビクター,EMIを加えたビッグ・シックスが覇を競う時代となった。

この頃日本は戦後成長から高度成長に移行し、62年には貿易自由化,63年には為替自由化,1967年からは資本自由化に踏み切った。

この中で世界のビッグ・シックスと日本がどう組み合わさっていくのかが問われる。

順に見ていくと、最初は1968年CBS レコードとソニーとの合弁だった。翌年には東芝音楽工業が英国EMI、キャピトルと合弁して東芝EMIが生まれる。日本グラモフォンはドイツ・グラモフォンとの合弁会社となった。

以下列挙すると
松下電器+日本ビクター+フィリップスで日本フォノグラム
パイオニア+渡辺プロダクション+ワーナーの顔ぶれで,ワーナー・パイオニア
日本ビクター+RCA の折半出資によるアール・ブイ・シー
日本ビクター+MCAの合弁でMCAビクター

という形で、 6つの世界のメジャーの合弁化が完成したことになる。
この間のゴタゴタで、日本コロンビアとキングレコードが提携先を失い没落した。日本コロンビアは2017年に上場廃止。キングレコードは2000年にクラシック盤の供給を停止。レコード会社としては健在。

キングレコードとライセンス関係を結んでいた英デッカも80年にポリグラムに買収され、ポリグラムはシーグラムに買収され、ユニバーサル・ミュージックの傘下に入る。

以下略