アナーキー・イン・ジャパンと言うサイトに面白い文章があったので紹介する。

1922年(大正11)に書かれた大杉栄の文章がそのまま掲載されているのだが、中身はバクーニンが書いたプルードンとマルクスの評価だ。

興味のある方はそちらへどうぞ



1845年7月、バクーニンは官憲の追及を逃れ、はじめてパリへ行った。そこで彼はプルードンやマルクスとも相知った。

バクーニンは、この二人からはもっとも大きな影響を受けた。後年、彼はこの二人を次のように批評している。

プルードン

プルードンは古い理想主義の伝習を打ち破ろうとした。しかし彼もまた矯正することのできない理想主義者であった。

彼は本当の道を発見する天才であった。力強い天才で革命的な思索家であった。しかし、いつもその理想主義のために、もとの誤謬に落ちていった。

彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、その方法を知らなかったことである。

マルクス

マルクスは思想家としては優れている。彼は史上いっさいの政治的、宗教的、法律的進化が経済的進化の原因ではなくって結果だということを主張した。

それは彼が発明したのではないが、その原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼のものだ。

マルクスは、僕とは較べものならないほど学者だった。すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。

彼の談話は、いつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、そこに卑劣な憎しみがあまりにしばしば入ってきた。

われわれの間には、隔てのない親しみというものは、決してなかった。僕は彼を不実で危険な見栄坊だと言った。

マルクスはプルードンよりも、自由についてもっと合理的な理論の上に立てるかもしれない。しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ。

(後略)

つまり社会主義の大道を本能的に知っていたのはプルードンだった。しかし彼はその大道を進むすべを知らなかった、ということになるのだろうか。
マルクスに対しては本質的な批判はない。ただ強権的で陰謀的だという性格的欠陥が俎上に載せられている。たしかに資本論であれこれの学説を批判するとき、しばしば人格的な否定まで論が及ぶことがしばしばある(例えばマルサス)。
実際にはその主張を受け入れ、取り入れる場合にすらそうするのだ。
私達はそのへんも考慮しながら読んでいく必要があると思う。