ウィキペディアのルルーに関する記事は簡潔に過ぎ、不当に過小評価している。

ピエール・ルルー(Pierre Leroux)
1797年4月7日 - 1871年4月

ウィキペディアによれば、ルルーは思想家と言うよりは一種のコピーライターで、「三の組」とよばれる基本原理まとめるところに妙技がある。

例えば神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。社会経済は家族、国家、財産から成り立っており、という具合に続いていく。

ということで、かなり辛口の評価となっている。
この記事の著者によれば、この評価は Encyclopædia Britannica によっているらしい。

ただこの記事は著しく不十分であり、例えばフランス革命の3つの標語「自由、平等、博愛」の作者であること、社会主義という言葉を、今日の用法で用い始めた人物であることが書かれていない。(初期社会主義 人物と思想

もう少し調べて書いた紹介文が必要であろう。

下記論文が見つかった。この文章からとりあえず年譜を作成する。

広島経済大学研究論集 1987


1797年 パリ郊外に職工の息子として生まれた。父親の死により

1808年 リモナデ、イエ(ソーダ水販売業)の父が死去。

1809年 パリ市の奨学金を得てレンヌのリセに通う。

「ルルーは自らの稼ぎにより家族を支えることを強いられた」とか、「学校を退いて石工として働いた」というのは嘘。
学校に入る前に父は死んでいる。石工(macon)ではなく、フリーメーソンになったという意味。

1814年 リセを卒業。植字工として身を立てる。

1817年 イギリス旅行。進歩的政治に触れ社会改革を志す。熱烈な炭焼党員となる。

炭焼き党(Charbonnerie)はイタリア、フランスを基盤とする革命的秘密結社。フランスでは1820年末時点で 8万人が加盟。

1824年 「le globe」(地球)紙の創刊にたずさわる。

「ル・グローブ」を編集したのはデュボワであった。デュボアはルルーとはリセ時代からの旧友。当時は(師範大学を出てリセ・シヤルルマーニュの教授を勤めていた。ルルーはデュボワの“控えめな共同作業者”であった。

反動的な王制l復古時代に芸術・宗教・政治の自由を鼓吹し、欧州諸国に広く講読された。

1825年 ルルー、サン・シモンと知遇を得る。

1827年 ルルー、「ル・グローブ」に最初の署名記事「ヨーロッパ連合論」を発表。徐々に雑誌の中核の役割を果たすようになる。

1830年 

7月 第二次フランス革命。「ル・グローブ」グループの多数派が新政府支持に乗り換え、雑誌は経営危機に陥る。ルルーは「ル・グローブ」のgerant (発行責任者)となりフィリップ派との合流を拒否。

1831年

1月 「ル・グローブ」はサン=シモン教の準機関誌になる。ルルーとサント=ブーヴは共同声明『無能な自由主義との訣別』を発表。

2月 サン=シモンの教義の普及のためブリユツセル, リエージュ, リヨン,グルノーブルを歴訪。

11月 ルルー、サン・シモン教の教祖アンファンタンと衝突。サンシモン教と断絶。

11月 ルルー、「ル・グローブ」を離れ、「百科評論」に移る。「百科評論」は1819年創刊の自由主義の雑誌出会ったが、サン=シモン教会離反グループの機関誌となる。1835年版まで続く。

1833年 ルルー、レノー と共に『新百科全書』の刊行に着手。「19世紀における人類の知識の一覧表を提供する,哲学,科学,文学,産業辞典」をめざす。

33年 レノーと共に, 『人権協会共和派原理』を発表。

1834年 評論集『個人主義と社会主義』を発行。

1835年 6月 サンド(当時31歳)はサント=ブーヴの紹介でルルーと知り合い、熱烈なルルー賛美者となる。金銭的援助を惜しまなかった。

ショパンとワケアリになりマジョルカ島に渡ったのは38年。

1840年、論文『De l'humanite 』を発表。人道主義哲学に基づくものとされる。

1841年11月 『新百科全書 』が終刊。ルルーはジョルジュ・サンドとともに『独立評論』を創刊する。1年後にルイ・ブランに経営権を引き渡す。

1845年 サンドの援助を得て雑誌「社会評論ープロレタリア問題の平和的解決」を発刊する。

1848年

2月 2月革命が勃発。ルルーは共和制を主張する。

4月 ルルーは立憲議会に立候補するが落選。6月の補欠選挙で選出される。

6月 6月蜂起の直後,ルルーは「勇敢に敗北者の弁護をひきうけた」(コミューン政府の弔文)

49年5月 立法議会選挙。ルルーは再選を果たす。自ら経営する日刊紙『真正共和制』を発行。急進的社会主義者としばしば対立。

1851年12月 ルイ・ボナパルトのクーデターのあとロンドンに亡命。ルイ・プラン、カベらと社会主義雑誌の発行を企画するが果たせず。ジャージー島での農業経営に入る。

1858年 ジャージー島で哲学,政治,文学を扱った雑誌「希 望」を刊行。

1859年 大赦の後帰国するが、政界を事実上引退。マルクスはインターナショナルの中央評議会にルルーを指名。

1871年 4月12日 脳卒中にて死亡。