以下は

2017年05月16日  多喜二の通夜 時刻表  の追補版である。
追補分は、小林セキ(述)「母の語る 小林多喜二」(新日本出版社 2011)からの採録である。

きわめて貴重な資料である。読み始めでは編者の独特の表現がやや気になるが、終戦直後(1946年2~4月)にセキさんの「懇願」により行われた聞き取りの文章化であり、やっと真実が語れるというセキさんの思いがひたひたと伝わってくる。

私にとって最大の驚きは、セキさんがふじ子と面識があったということである。

私はその婦人の方の名も知りませんが、いつか阿佐ヶ谷の家へ原稿料なぞ届けてくださって、こっそり多喜二の消息なぞ伝えていただいた方がそれではないかと思います。

短い期間ながら、しかも日陰の生活をしながらも、多喜二を愛してやっていただいたかと思えば、その方に心から御礼を申し上げたいのでございます。

これは第一次原稿には入っていない。最初は黙っているつもりだったのだろう。しかしその後、平野謙がゲスの勘ぐりをやったために、2年後の再聞き取りと第二次原稿作成の際に付け加えたのであろう。
“日陰の生活”とか“愛してやっていただいた” なんてセリフは編者の思い入れだろう。だがセキさんが彼女の真意をしっかり理解し配慮していたことは間違いない。
だから、狂乱するふじ子を見ても驚かなかったし、そのことは明かさずに終えたのであろう。
しかし、二人の間に「大恋愛」があったことも知らなかったし、「原稿料」が本当に原稿料なのかどうかも知らないままだった。


2017年5月16日

以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。


2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。
警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の河面さんという主婦から知らされた。(夕刊という情報もある)

多喜二の家は馬橋3丁目375番地。部屋は8畳、6畳、3畳の3間に、台所のある一軒家。周囲には菜園、竹藪もあった。31年にここを購入し、母セキ、弟三吾の三人で暮らしていた。

隣家は河面さんという夫婦。夫が大学の教師だった。

セキは河面さんに小林本家(当時東京に在住)に連絡を取るよう依頼した。三吾は外出中で連絡つかず。
セキは預かっていた二歳の孫をネンネコでおぶると、ハイヤーを雇い築地書に向かう。

セキが負うていた孫は多喜二の妹、幸田つぎ子の長子である。当時、幸田一家は小樽の小林実家に住んでいたが、家事多忙のためセキが預かっていた。

江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。築地署前の大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが、すでにセキは出発後であった。阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 無産者弁護団の青柳盛雄弁護士らが、遺体との面会を要求するが拒否される。

江口渙、佐々木孝丸、大宅壮一らプロット関係者20名余りが前田医院前に集結。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師もやってきた。

午後6時半 セキが築地署に到着。「多喜二の母です」と申告し特高室に案内される。特高室で「なぜ知らせなかった」と抗議。

この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

午後7時30分 親戚の小林さんが築地署に駆けつけ、身元引受人となる。遺体の引き取りが決まる。

遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていた。三吾の行方はまだつかめなかった。

小林さんは秋田の小林一族の本家にあたる人。当時は東京に在住しており、セキは日頃から連絡をとっていたと思われる。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。


午後9時30分

セキが前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。
 

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口、佐々木がタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田医師、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。ただし稲子の回想には矛盾が多い。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。

前田病院に電話したのは稲子で、彼女は西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したというが、片道30分もかかるのでありえない。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子の回想: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。

息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。

私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂は最初から最後まで、比較的冷静に事態を観察していた人物であり、その証言は座標軸として貴重だ)

小坂と上野
       小坂と上野
セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。
その間に、江口、佐々木らが本家の小林さんと今後の措置につき打ち合わせ。


午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、混乱・錯綜している。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、時事新報の記者とカメラマンが到着する。新聞社の車に同乗したふじ子が駆け込んでくる。この後、小坂多喜子の文章にある「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。

原泉はこの「女優」に見覚えがあった。そして「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。時事新報の記者を見つけ同行させた。

11時30分 自宅で江口が新聞のインタビューに答える。

顔面の打撲・裂傷、首の縄のあと、腰より下の出血等がひどい。たんなる心臓麻痺とは思えない。明日、当家から死因に関する声明書を発表する。


12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

ふじ子の句、二首

恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。



2月22日


午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う


午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。

多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。

22日夜 無宗教の通夜。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

2月23日

午後1時 告別式。
午後3時 堀の内の火葬場で火葬を行う。