1.忽然と消滅した四突墓人

というわけで、「虎は死して皮を残す」と言うが、彼らは皮しか残さなかった。

もし彼らが朝鮮半島から来たのだとすれば、上陸後の経路は異様である。彼らは天孫族が九州に上陸したのと同じく、紀元前2世紀ころに島根県浜田近辺の海岸に上陸(漂着?)した。

天孫族が先住民と戦いそれを支配下におさめたのとは異なり、彼らは何かを恐れるかのように一目散に山に入って行った。そして安芸の山中で山賊のような暮らしを始めた。

そもそも文化生活にあまりなじまなかった集団であったのかも知れない。それが島根の山中で砂鉄を見つけ鉄器を装備したのかも知れない。こうして彼らは150年の眠りから覚め、ムキバンダでもう一つの四突墓文化を開かせた。

2.四突墓文化の一貫説には無理がある

当初は三次→むきばんだ集団移住説を考えてみたが、多分無理だろう。
紀元前150年ころに三次で開花した草創期の四突墓文化と、紀元50年ころからむきばんだで始まった四突墓との間に連続性はあるのかと言われると、あまりに長過ぎる。
そこには200年もの時差があり、むしろ第一波はそれで絶滅し、第二波として渡来した人々がむきばんだに拠点を形成したのではないかという気がする。
三次とむきばんだを連続事象とし、突然の強大化を説明するためには、出雲山中でのたたら製鉄の展開が前提とならなければならないが、考古学的にはそれは6世紀のこととされている、そのような可能性は低いようだ。

3.最大の足跡は青銅器文明の破壊

荒神山にはあらゆる銅製品が埋められ、放棄されている。私はこれは四突墓人集団によるしわざと見ている。

彼らは鉄器文明のもとで育ったまったくの異文化人だったから、青銅器は祭祀道具にしか見えなかった。だから彼らは青銅器信仰を拒否し、実用性ゼロの青銅器を惜しげもなく捨てた。それが銅鐸であろうと、銅剣であろうと、銅鉾であろうと、それはどうでも良かった。

4.スサノオ一族との時間的関係

私はこれまで、銅製品を埋めたのはスサノオ一族、すなわち天孫系出雲族と考えていた。実は彼らは3世紀はじめに大和に入ったとき、銅鐸を廃棄しているのである。

ただご承知のように銅鐸信仰と銅剣・銅矛信仰とは同一ではない。銅剣・銅矛信仰はむしろ天孫族の信仰であった可能性もある。

スサノオ一族はたしかに長江系の渡来人やそれと縄文が混血した弥生人とは異なる。しかし天孫系はそれなりに青銅器文明を受け入れていた形跡がある。
九州では銅鐸の普及はないが銅剣・銅矛はそれなりに普及していた。少なくとも天孫系はそれを排除していなかった。

四突墓を特徴とする征服者集団、銅鐸であろうと銅剣であろうと、要するに青銅器を媒介する信仰へのあからさまな敵意、青銅宗教を抹殺する強い意志があったと見られる征服者集団は、天孫族・出雲系とは異なると見なければならない。

もう一つは、伝承の範囲内でしかないのだが、天孫族・出雲系は高天原系に国を譲ったのであり、山から飛び出してきた異形の衆に滅ぼされたわけではないということだ。
すると、この2つのエピソードの間には時差がある。しかも国譲りが先行しているという関係になる。

5.九州の倭王朝支配が復活

武器の優位性のみを背景にして、青谷上寺地の人々を皆殺しにした殺し屋集団は、鉄器の普及が進むと優位性を失い、紀元250年を最後にして忽然と姿を消した。

墓地を除けばなんの跡形も残さなかった。それに代わるように九州の倭王朝がまた戻ってきて、何事もなかったように統治を続けた。もともとここは九州王朝の支配地だった。彼らは出雲族を駆逐し九州から山陰までを支配下に収めたのだ。


4.天皇家という旧出雲族の支配が復活

そして、100年後に、出雲は東からやってきた大和軍に破れ、服従するようになった。

出雲の征服は日本書紀では崇神天皇の時代だが、古事記では景行天皇の時代に「倭建命」が出雲建を殺したという記述と重複している。いずれにしても4世紀中頃のことと推量される。

注目されるのは、当時出雲を仕切っていた出雲振根は筑紫王朝に臣従する人物であるということだ。しかもこの頃、出雲において大和が九州の力は拮抗し、徐々に大和優位に傾きつつあったということになる。

これはなんとも不思議な因縁で、大和軍は神武の末裔と言いながら、実体は大物主の流れをくむ旧出雲系であった。それが旧出雲系を駆逐した倭王朝系の勢力を屈服させたことになる。例えば物部という氏族は、元は浜田の物部神社あたりの豪族であったのだろう。