さて、ということで
いよいよ四隅突出型墳丘墓だ。面倒なので四突墓と略す。

1.四突墓とは何なのか

ウィキの定義から始めよう

弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制である。日本海側を中心に約90基が確認されている。
四突墓歴史
            左クリックで拡大します

弥生中期後半 広島県の三次盆地の四突墓が最も古い例とされる。

前方後円墳に先行し、弥生後期後葉には美作・備後の北部地域に拡大した。少し遅れ能登半島などで造られている。

同じ四突墓でも山陰と福井~富山では様式に違いがあり、渡来した種族や時期に多少の異同があったかも知れない。

吉備の楯築墳丘墓はほぼ同時期に存在したと想定される。埋葬施設も楯築墳丘墓と同じような構造の木槨墓となっている。
四突墓の分布2
             四突墓の分布
副葬の土器は吉備、山陰東部や北陸南部のものが大量に混入している。特徴的なのは、弥生時代に吉備で作られた特殊器台が多くを占めることだ。

2.誰が建てたのか

ヤマト王権以前に成立した王権(出雲王権)を想定する説もある。

四隅突出型墳丘墓の原型は高句麗にあるとの見解が主流である。高句麗に押し出された朝鮮半島東岸(北方系)の人々が半島伝いに南下し、出雲に到来した可能性が強い。

弥生後期には出雲の西と東に大きな四突墓が集中しており、そこに大きな政治勢力があったと推定されている。

西谷墳墓群を中心とする四突墓は、古墳時代に入ると止まり、これに代わり東部安來の方墳が発達する。

安来市には大型の方墳が集中しているが、これは四突墓の延長線上の様式とされている。


3.弥生時代の区分と四突墓


BC100-AD50頃 Ⅳ期(弥生中期後半) 広島の三次盆地を中心に初期の四突墓が出現し始める。

AD50-180頃 Ⅴ期1,2(後期前半) 伯耆・因幡に建設地が移動する。

妻木晩田の洞の原遺跡が出現(2号墓)。伯耆地方に拡大
規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していった。

AD180-AD250頃 Ⅴ期3~4(後期後半)
分布の中心は出雲に移る。北陸地方などにも広がる。
墳丘の一層の大型化。
西谷3号墓では、吉備や北近畿の土器も大量に備えられる。

このあとⅥ期に入ると北陸にも広がる。
さらに古墳前期には東北にも四突墓が造営される。
しかし山陰では、四隅突出型墳丘墓は、まったく造られなくなる。