0÷0は、ブラーマグプタはゼロと定義した。なぜそうなのか、なぜそれが間違いなのか。

やねうらおブログに「0÷0がよくわからない件」という記事があったので勉強した。


ある小学校のエピソード

小学校の算数の教師が試験問題で「0÷0=」というのを出した。その教師は「0」という答えを期待したらしい。

問題を持ち帰った子供の親が、高校の数学教師だった。「こんなの不定に決まってるだろ」と猛烈に抗議をしたらしいが、話が通じない。

最後は校長のところまで話が行って、決着がついたということだ。

なぜ小学校教師は「0÷0=0」と考えたのか

やねうらおさんはこう考えた。

小学校では割り算を掛け算の逆操作として定義している。

掛け算で 2x3=6 
だから 6÷3は2なのだ、という答えを導く、のだそうだ。

それだと答えはゼロにはならない

この定義によると、
△ × 0 = 0 (△は何でも良い)
つまりななんでもとにかく0をかければ、答えはゼロだ。

これを割り算にすると、
0÷0 = △ ということになる。
つまり答えは「何でもあり」ということになる。

しかし小学校の先生はこう考えたのだろう

0を何で割っても所詮は0だ。
つまり、0÷△=0だ
だから0で割っても0だと考えたのだろう。
実に素直だ。
だからゼロの発見者とされる古代インドのブラーマグプタもそう考えたのだろう。

これから先はとても難しくてついていけない、が…

ただ、わかるのは、わり算の世界と掛け算の世界は、似てはいるけど違う世界なのだということだ。この2つの世界ではゼロの扱いがまったく異なってくる。

だから「割り算は掛け算の逆操作だ」と理解するのは、実はとても難しい話なのだ。小学生にそのような教え方をしてはならない。

1で割る(割らない)論理と0で割る論理

割り算におけるゼロの特殊性は、次の2つになる。

「割らない」というのは「1で割る」のと同じ意味だ。それ以外のすべての数は「割る」ことを意味する。だから1というのは「論理的な分岐点」なのだ。
「1」という、この上なくしっかりした数で割っているのに、なぜそれは割らないのと同じ結果になるのか。これは一般的な常識から言うととてもややこしい。

そこを小数点以下に向かっていくと今度はどんどん増えていく。そして+0のところで無限大に達する。ところがゼロを越して-0になると今度はいきなりマイナス無限大になる。なおかつ、そこを越す瞬間は、+無限大からー無限大までの間のどこに居てもいいのである(ただし相対的な順はある)。

割り算の論理は弁証法である

この現象は弁証法で言う「量から質」への転換を表しているのだろう。気体と液体、液体と固体との間の「相面」の変化を考えればよい。摂氏0度のとき、水は固体でも液体でもどうでもいいのだ。

どう考えも思考操作としての割り算は、掛け算とは違う。量子的な論理的前提が必要なのだ。掛け算にタブーはないが、割り算においては0はタブーなのだ。

天文学でビッグバン以前のことを考えていはいけないのと同じであり、ブラックホールの向こう側を考えてはいけないのと同じだ。

割り算用の九九を作るべきだ

割り算の論理は一筋縄では行かない。+0< では第1象限の双曲線、<-0 では第3象限の双曲線となる。だから最初は覚え込むしかない。

だから本来なら、割り算用の九九を作って覚え込ませるべきなのではないか。
例えば「8÷3は2の2」みたいなやつだ。

その上で、割り算にはなぜかタブーがあるということ、ゼロという数字にはいろいろな意味があること、掛け算と割り算の関係は1対1ではないことに思いを致すべきではないのか。