「価値は主観、価格は客観」か? 岩井さんの天動説

昨日の話の続きだが、この番組はNHKが制作したものだが、柱となっているのは岩井さんの所論だ。ここを分けて議論しなければならないから話は複雑だ。

岩井さんの貨幣論は、結局「価値は主観、価格は客観」という主張に集約される。これはケネーからスミス、マルクスに至る古典経済学を全面否定するものだ。

立論は完全に逆立ちする。価格の集合概念として価値というものが想起しうる。それは集団主観であり、一種のマインドとして扱わなければならない、という結論に至る。

私はこれは天動説への立ち帰りと考える。

「価値」というのが主観だとすると、貨幣の価値は価格の集合を通じて社会心理学的に決まってくることになる。

こうして価値は投下労働量によって決まるというテーゼから完全に決別する。

貨幣論の歴史

アリストテレスの経済についての考えは「政治学」に示されている。
そこでは自由をもたらすものとして、貨幣が称讃されている。

近世に入り、貨幣は可能性の象徴として考えられるようになった。貨幣を媒介にして自由な世界が出現し、欲望は果てしなく広がり、人間は才能を開花させる

このような貨幣についての思想が、はじめての近代思想、重金主義である。

スミスは貨幣の物神化を批判した

貨幣は交換手段に過ぎず、貨幣に富の見せかけを与えているのは社会関係なのだ。

岩井さんはこのあと使い古されたマルクス批判、価格実現の問題を繰り返すが、ここでは省略する。

ただ、売買そのものが二面性を持つことを抑えて置かなければならない。ものが市場で売られるときは、売り手の側からすれば「命がけの跳躍」を迫られるが、買い手の側はそうではない。

購買は生活手段の獲得に過ぎない。しかしその使用が新たな欲望を生み出す。だから、欲望の水準は一義的には消費の水準に規定される。
別に「命がけの跳躍」をするわけではない。それは生産者の勝手である。


貨幣と欲望

貨幣は欲望の対象となる。致富欲が貨幣へと集中するのは、それが不安に基づく欲望だからである。

一方で、貨幣というのは流通してこそ意義を持つ。可能性としての貨幣は全面的な流動性を志向する。

これは議論が振り出しに戻っただけのことだ。貨幣というのは価値の標章であり、価値の裏づけがあるからこそ交換手段としての意義を持つのだ。


すみません。曖昧な記憶を元にした記事のため、誤解等あるかもしれません。特に後半はアルコールが回っています。いずれ岩井さんの文章に目を通した上で、訂正すべきは訂正したいと思います。