「出雲王朝」の秘密

驚いた。出雲にもう一つ王朝があったのだ。

それがあると、妻木晩田も青谷上寺地も銅剣や銅鐸の山もすべて説明できるのだ。

目下頭は混乱しており、自分の頭の中に構築してきた古代史像をどうひっくり返して、どう整理していったらいいのか、分からなくなっている。猛吹雪の中で方向感を失っているような感じだ。そのめまい感は何故かこころよい。

四隅突出型墳丘墓を象徴とする王国

話は花谷浩さんの「出雲王が君臨した時代」というものだ。

リードがかっこいい。
弥生時代後期の出雲には特異な墳墓が現れる。四隅突出型墳丘墓と呼ばれるそれは、わずか100年弱で消えた王朝の存在を示唆する。
宍道湖の西岸に西谷丘陵という小高い丘があり、そこに4つの四隅突出型墳丘墓が発見された。

四隅突出型といえば妻木晩田(むきばんだ)でおなじみの朝鮮北部由来の墳墓だ。これは明らかに縄文とも弥生とも、さらにスサノオ系とも異なる異人種系のものだ。

2016年12月05日  「むきばんだ」の人々
2016年12月06日  古代出雲のトロイ戦争か
を参照されたい。

出雲地方の古代史の経過

一応の筋書きを書くとこうなる、

まず紀元前1世紀ころ、スサノオが新羅経由で出雲にやってきて、葦原中津国を作り、それはオオクニヌシの頃に最盛期を迎えた。

これは、先住する銅鐸人(長江系渡来民と縄文晩期人の混合)そのものであったか、あるいは高天原系の征服王朝であったか不明である。

ついで紀元前後に、高天原の本隊が九州北部に上陸し、糸島(日向)に降臨した。彼らは宗像を支配下におさめ、出雲に進攻した。

オオクニヌシは出雲を明け渡し、何処へか消えた。その一族のオオモノヌシはおそらくキビを経由して難波方面へと移動した。

その後、出雲はいったん歴史から姿を消す。そして紀元100年ころに青谷上寺地と、おそらくこれを滅ぼした人々のクニ、妻木晩田とが登場する。


四隅突出型墳丘の特異性

4つの四隅突出型墳丘が並んでいるところは、エジプトのピラミッドを想起させるが、同時に阿部3代が眠る平泉中尊寺とも通じるところがある。

建造年代はかなりはっきりしているらしく、紀元150年から270年ころの建造とのことだ。卑弥呼とばっちり重なる時代である。魏志倭人伝で言及されないのはなぜだろう。

おそらく出雲王は妻木晩田の社会に直接つながるものであろう。朝鮮半島東岸、おそらく新羅よりさらに北からやってきたバイキングであろうと思う。

さらに想像をたくましくすれば、1019年に九州北岸に侵攻(入寇)した「刀伊」(とい)と同じ流れではなかろうか。

2018年06月27日 「刀伊」人の九州侵入 を参照されたい。
四隅突出簿の分布
妻木晩田の住民も3世紀の末ころには姿を消す。その後四隅突出型は姿を消すから、おそらく日本からいなくなったのであろう。

振根の戦いとの関連は疑問

後に崇神朝時代に出雲の支配者・振根は大和に敗れ、その属国となる。花谷さんはこのエピソードを出雲王国滅亡に比定するのだが、それは間違いだろう。

それは卑弥呼より100年もあとの話だ。「崇神天皇の在位は3世紀ころとも推定される」というセリフは歴史学者としての常識を疑わせる。


もし出雲王朝が滅亡したとすれば、滅ぼしたのは九州王朝

もう一つ、日本書紀によれば振根は、王と言うよりも九州王朝に忠誠を誓う地方豪族とみたほうがよい。出雲王朝の消失後、出雲に影響力を及ぼしたのは九州王朝であったと見られる。

出雲に北方民が襲来して王国を建てたとするなら、それは出雲を国譲りで自らの領土とした九州王朝にとっては侵略行為だ。当然戦うだろう。

「倭国大いに乱れて…」というのはその戦いだったのか。
つまり出雲王国は倭国により滅ぼされたか、あるいは何らかの理由により自己崩壊したと見るべきかも知れない。

出雲王国は4代限りの「バイキング王国」であった

出雲王国の話は、かつてのイングランドにデーン人などが襲来し支配したのと同じように、日本にもバイキングの時代があったのだと想像させる。

想像をたくましくすると、荒神山などの銅剣や銅鐸は、彼らが先住民から奪って埋蔵したとも考えられる。もし彼らが鉄器で武装していたとすれば、青銅製の武器など祭祀以外になんのユーティリティもない。