大化の改新の謎(天武の謎)

1.なぜ改新であってはいけないのか

私の高校時代、645年の大化の改新というのは日本史の最大のヤマだった。

それがいつの間にか「大化の改新」という呼び方はしなくなった。その代わりに「乙巳の変」と呼ばれるようになっている。

変えた人たちの思いは、それはただのクーデターで、蘇我蝦夷の暗殺事件であって、ちっとも変わってはいないというニュアンスを強調したいのだろうと思う。

しかしその後の経過を見ると、645年を発端とする数十年の変化はたんなるクーデターとしての枠には到底当てはまらないと思う。

革命という言葉を支配階級の変更と捉えるなら、それは革命に当たらないかも知れない。しかし我々はもはや19世紀的な枠組みで革命という言葉を閉じ込める必要はないのではないだろうか。

2.大化の改新を三段階で考える

反唐軍事体制の構築→白村江の敗北と唐軍の進駐→壬申の乱と自決体制、という三段階で捉える必要があるのではないか。

そこに一貫して流れているのは、日本の独立維持という強い意志であり、「反唐ナショナリズム」の思想である。

だから、「乙巳の変」に押し込もうとする考えは、どうも気に食わないのだ。

3.最大の難問は、前半において天武の顔が見えぬこと

2.の考えが成り立つためには、天武(大海人皇子)が大化の改新に最初から関わっていたことが証明されなければならない。

ところが困ったことに、肝心のそのことがさっぱり良くわからないのである。

そもそも日本書紀というのは天武が作らせた史書であり、彼の功績に対する賞賛が芯になって展開されなければならないはずだ。

であれば「乙巳の変」から始まって、百済支援、唐や新羅との対応など彼が中心に座る形でストーリーが展開しなければならないはずだ。

ところが壬申の乱に至るまで、天武は一向に歴史の表舞台に登場しない。まるで表立つのを嫌がっているようにさえ見える。

ここがわからないと、その後の持統や藤原不比等の話もさっぱり見えてこないのである。


4.一応年譜で拾ってみた

生年 不明だが631年説が有力。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子。中大兄皇子と両親を同じくする弟。

645年6月 20歳で乙巳の変。このとき中大兄皇子は20歳。大海人は年少のため、行動には加わっていない可能性がある。

653年 中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち倭(やまと)に移る。このとき大海人も行動をともにした(日本書紀)
その後、中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。

654年 大海人、胸形君徳善の女、尼子娘との間に最初の子、高市皇子をもうける。

661年 朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずである。

664年 大海人皇子、中大兄皇子の命により、冠位二十六階制を宣下。この頃は皇位継承者とみなされていたらしい。

668年 天智の即位に合わせ皇太子となる(出典不祥)。

668年 激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとした。藤原鎌足が取りなした(藤氏家伝)。三者が微妙な関係に入ったことがうかがわれる。

669年 五月条では大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となる。

671年1月 天智天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命。大海人は完全に継承者コースを外れる。懐風藻では666年とされる。

671年10月 病臥生活に入った天智天皇は、大海人皇子を病床に呼び寄せ後事を託した。大海人はその日のうちに剃髪し、吉野に下った。そのまま、大友皇子が朝廷を主宰した。

671年6月 壬申の乱が始まる。 

673年3月 即位 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。

673 大海人は天智天皇の皇女の大江皇女を妃にする。