記事の目的は、1880年代、バチェラーとマンローがイギリスを飛び出した頃のイギリスの雰囲気を知って置かなければならないと思ったからである。とくに博物学、考古学、生物学、民俗学への熱中は、何によってもたらされたのか、を雰囲気としてつかんでおきたい。
そのために、その輪の中心にいたダーウィンの側から世の中を振り返ってみたい。


ダーウィン:  1809年 - 1882年

ダーウィンは、中部イングランドのウェールズよりの地方に生まれた。父は医師、母は陶器で有名なウェッジウッド家の出身である。ダーウィン家は急進的リベラル派に属していた。国教会を受け入れていたが本来はユニテリアンで、ダーウィンも幼少時にはユニテリアンの教会に通った。

1825(16歳) エディンバラ大学で医学を学ぶ。プリニー協会に所属し、海洋生物の調査に参加。ラマルクの進化論に接する。

1827 医師となることを断念し、大学を去る。その後は牧師となることを目指しケンブリッジ大学の神学部(クライスト・カレッジ)に再入学。一層地質学や博物学への情熱が強まる。

1831 卒業後、ビーグル号での航海。ビーグル号はイギリス海軍の測量船。ダーウィンは艦長の会話相手のための客人として乗船。航海は5年にわたる。

1835年 ビーグル号がガラパゴス諸島に到着。ゾウガメなどの多様性が進化論のヒントとなった。滞在は意外に短く1ヶ月あまりにとどまる。

1836 イギリスに帰港。ヘンズローが手紙をパンフレットにして配布していたため、すでに関係者の間では有名になっていた。

航海中にチャールズ・ライエルの「地質学原理」を読み、地質の形成が同一の原理によるものだという「斉一説」に共感。動植物でもわずかな変化が蓄積され、質的変化をもたらしたと考えるようになる。

1837 学者との交流の中で、「種が他の種に変わる」可能性を考えるようになる。ラマルクの進化論を捨て、生命を一つの進化樹から分岐したものと見る。

1838 マルサスの人口論を読んで、生物は適応し、より優秀な個体が生き残るという自然選択説を着想する。

1839 ビーグル号航海記を出版。人気作家となる。

1844 私信で、進化論の構想スケッチを「殺人を告白するようなものですが」と書き送る。

1850年  世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合う。

1857年 ダーウィン、私信の形で『自然選択』の要約を明らかにする。

1858 ウォレスが「変異」説を提示。ダーウィンはウォレスと所論を共有。進化論の立場を共同発表。同時に先主権を主張する。

1859 単独著となる「種の起源」を発表。

自然の多様性の説明を主眼とした点で、明らかに自然淘汰論より一歩進んでいる。自然淘汰は種のやせ細りを結果するが、自然選択の実現には生物の多様性が不可欠だからだ。

人間がサルから進化したという「示唆」は、各方面の反発を招く。ハクスレー、フッカーが擁護に回る。

1860 オックスフォード大学で、ハクスリー、フッカーら支持者とウィルバーフォース大司教ら反対者による討論会が行われ、双方の論拠が出揃う。

1863 戦闘的唯物論者ハクスリー、『自然における人間の位置』を発表。解剖学的に人類は類人猿であることを示した。

1871 ダーウィン、『人間の由来』を発表。人間と動物の精神的、肉体的連続性を示し、ヒトは動物であると論じる(性選択性は略)

1872 ダーウィン、『人と動物の感情の表現』を発表。人間の心理の進化と動物行動との連続性を論じる。

1882年 ダーウィンが心臓病にて死亡。国葬に付されウェストミンスター寺院に埋葬された。

1883 ダーウィンのいとこゴルトン、「優生学」を主張。「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨する。この理論に基づき多くの国で断種法が強制される。

1890 最も反ダーウィン的な人々の間で、弱肉強食を合理化する「社会ダーウィニズム」の用語が用い始められる。