旭川博物館の展示物紹介

2ヶ月ほど前に旭川博物館に行ってきた。買ったばかりのファーウェイのスマートフォンが威力を発揮した。
とにかくフォーカス不要、明るさ調整も不要、近くに寄ればパッとマクロになる。
何よりもありがたいのは手ぶれ防止だ。片手どりOKになると、俄然カメラ位置が広く取れるようになる。つま先立ちして手を思い切り伸ばしてカシャッということも可能だ。
展示物の撮影の苦労は、とにかくガラスの映り込み、展示パネルの照り返しをいかに排除するかにある。
函館出土の土偶
            函館出土の土偶(笑顔が素敵だ)
これだけの高機能カメラなら、電話機能もネット機能も何もなくても10万円の価値がある。おそらくカメラ屋さんはバッタバッタと倒産するのではないだろうか。

そんなわけで一部を紹介する。

「アイヌ民族」の成立過程

展示資料の中でも圧倒的なのが「縄文からアイヌへ」と題されたパネルである。
文化圏とヒトの形質を図示したものだが、文化と形質の間に微妙な乖離がある。
この乖離を理論化したのが瀬川史学の精髄だ。(瀬川拓郎さんはこの博物館の前館長)

1.縄文晩期
縄文からアイヌへ1

縄文人による縄文文化が全国を風靡していた。

2.続縄文前期

宮城・山形ラインまでは縄文人社会が続いたが、その南には渡来人と縄文人の混血した弥生人が北上してきていた。

さらに稲作の北限は津軽海峡までやってきていた。これに伴い弥生文化圏も本州北限まで達した。

すなわち形質的には縄文人だが文化的には弥生人という集団が誕生した。

3.続縄文後期

寒波が襲来し、稲作の北限は宮城まで後退した。

北海道まで退いた続縄文文化はふたたび秋田・岩手の南端まで広がった。一方で弥生文化→古墳文化も残されたため、青森・岩手・秋田の3県は両文化の混在地帯となった。

それにも拘らず弥生文化→古墳文化の北上は進み、山形・宮城のほぼ全域が弥生人の支配下に入った。

一方サハリンからはニブフが南下し、海岸沿いにコロニーを形成した。

4.擦文文化成立期
縄文からアイヌへ2

本州中部以南では飛鳥時代の始まりに当たる。
阿倍比羅夫~坂上田村麿の北伐が本格化する。

この時期、境界は最も輻輳したものとなる。最も一貫した傾向は大和朝廷の北進であるが、その勢いはそれほど強くない。これは縄文人が強く抵抗したためかもしれない。

ヒト形質から見ると秋田と岩手南部が弥生系→大和系となり、北海道の北半分はオホーツク文化を担うニブフ人が縄文人と混住した。縄文人は擦文文化をにない、津軽・渡島を中心に分布するようになる。

文化的には、稲作の目立った北進はないが、雑穀(粟)の農耕を開始していた。縄文人の多くは土師器を受容するようになり、弥生文化→大和文化に包摂されるようになる。

5.擦文文化確立期

大和政権で言うと平安時代以降に相当する。
この時期、縄文人は2つに分裂する。
本州に残った縄文人は、稲作を基調とする大和文化を全面的に受け入れ、固有言語を放棄し同化した。

同時に全面的に大和に従属しつつ、そこで培った力を北に向けた。彼らはバイリンガルだったであろう。

そして大和政権の目下の同盟者として、北海道の縄文人に対し優位に立ち、北への進出を加速したのではないか。
アイヌの北方進出
         後段は少し過大評価の感もあるが…
北海道の縄文人はオホーツク人を北海道から駆逐し、縄文語をしゃべる縄文人の土地とした。この過程でオホーツク文化を包摂し、人種的にも混合した。これがアイヌ人である。

DNA的には4分の1(ミトコンドリアDNAの約半分)がオホーツク系と考えられる。本州に残留し大和人と交配した縄文人とは外見上もかなり異なる形質を有するに至った。

6.アイヌ文化成立期

地図は単純化した。形質を問題にしなければ、内地の縄文人は和人となり、北海道の縄文人はアイヌとなった。

アイヌは宗谷海峡を超え樺太南部まで分布した。彼らは狩猟・漁労のかたわら大陸との交易にも乗り出した。

彼らは遅れていたために農業を営まなかったのではなく、狩猟に特化したと考えられる。

7.結論

結論というか、私の感想です。

①アイヌ人は縄文の血を色濃く残す民族である。

②アイヌ人はニブフや千島系の「オホーツク人」の血と文化を受け継いでいる。

③アイヌ人は狩猟・漁撈を生業として特化した民族である。

④アイヌ人は大和人との交流の中で発展した。(しかしそれは従属的なものであった)
助命を乞う蝦夷