中村哲さんの死と、私たちの「自己責任」

中村さんの死をきっかけにふたたび「自己責任」論が噴出するかと思い、2ちゃんや掲示板を覗いてみた。

分かったのは、すでに掲示板というものは存在しないということだ。しかしネトウヨの寄せ場は、yahoo知恵袋などQ&Aサイトにあった。

多くのホームページは受け入れなくなっているから、自分で質問をして自分で答える式のことをやっている。ただし2ちゃんみたいなえげつないのは弾かれるらしい。

正直、どのQ&Aも低調だ。「自己責任」をめぐる議論は、論点が出尽くしているのかもしれない。


1.中村哲は、狙われていると日本政府から通達されていたのに、アフガニスタンに行った。自業自得ですし、なぜ、特別扱いするの?

と参加をうながす挑発的な質問があった。しかし回答数は3つ。

質問は、「自己責任論で一般化できない特別な事例があるのか」ということに帰結するので、答えは「そういう事例はある」ということになる。
ついで、中村さんがそういう事例に該当するのかということになるが、「該当する」ということになる。

ただ議論としては二段階だが、中村さんの事例は「ある」ことを証明すればほとんど終わってしまうので、「自己責任」論者の立場はかなり苦しい。

前半の論理が破綻した瞬間に「げんこつ」が飛んでくるだろう。


2.中村哲さんは日本に引き上げる決断をすべきだったと思わないか。引き上げる勇気を持つべきでした。

相手の出方次第では、自己責任論に持っていこうという、変化球の質問だ。

反論としては、中村さんは引き揚げる勇気も持っていたが、それ以上に残留する勇気を持っていた。私たちには両方ともない。
だから、残留する勇気も、そのためのノウハウも持たない人間が、とやかくいうべき問題ではない。

むしろ、彼の意志をサポートする私たちの責任が問われるべきなのではないか。

中村さんは身に寸鉄も佩びず、戦火のアフガンを生き抜いた。「憲法が守ってくれた」のはその基本的なポジションだ。具体的には自分の責任で自身を守ってきたのだと思う。

批判する側はまずそれをわきまえるべきだ。

彼は死の責任を誰にも問うていない。問うてもいない質問に答えるのは無意味だ。中村さんがその命をかけてあなたに問いかけているのは、「私の生と死は無意味だったのか、無駄だったのか」ということだ。

批判する側には、その問いに答える「責任」がある。


3.憲法9条が僕らを守ってくれると言っていた中村哲先生が、お亡くなりになりました。どういうことでしょうか?

虫唾の走るような質問だ。これに対しては胸のすくような回答がある。多分、何度も試され済みのQ&Aなのだろう。

「シートベルトがあなたの命を守ります」という交通安全のための呼びかけに対して、「シートベルトをしていても亡くなったのはどういうことでしょうか?」とチャチャを入れているのと同じです。

中村さんは、9条が自分達の活動を支え、またその環境を作っているという極めて真っ当なことをおっしゃっているだけで、これで自分は不死身となったなんてことは一言も言ってません。


4.危険を承知で人道支援がしたいから行った訳で、自己責任。

ここまで言う人間もいる。

まず危険な場所で危険を顧みずに犠牲的精神を発揮することになんの問題もない。
ただし危険な任務を出来る限り安全に遂行するのは本人の責任もあるし、周囲の義務でもある。

しかし問題はそれ以前だ。

人道というのは人の道だ。それはあなたにとっても人としての道だ。
人道的行為というのは往々にして無償で、損を覚悟で、場合によっては危険も承知でやるから人道的行為なのだ。
人のためになるからと言っても、それを儲けの対象としてやるんなら、人道的行為とは言わない。

もし人道的行為を行う人がいれば、我々は敬意を払い、それをサポートする「人としての責任」がある。