医師マンローについて文献を集めていますが、その経過についての報告です。


1.道庁職員 谷万吉との往復書簡

往復書簡集は
北大に保管されているらしいが、目下アクセスの方法は不明。

最も重要な書簡は36年12月の谷宛書簡
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。

「(谷が)二谷文次郎氏の案内で,自転車で二風谷のマンロー館を訪ね
たのがマンローとの交際の始まりであり,昭和年()のことである。以
来マンローが次第に苦境に陥って行くのを支え,亡くなるまで,この人ほど惜
しみなく助力し,公私にわたって誠心誠意尽くした人は他にあるまい。マンロ
ーは谷氏を何より力と頼み,頼りにし,誰よりも信頼して心打ち明ける手紙を
何通も書いた」
伸顕「アイヌ民族と2人の英国人」より

なお谷万吉は戦後に「ニール・ゴードン・マンロー博士年譜(未定稿)」 1
という資料を編集しているらしい。

谷 万吉, 小山 政弘∥編 北海道史研究会 1975-1976
『北海道史研究』第9号、第10号 抜萃
ということで、明日もう一度図書館に行ってみようと思う。

後日談: 大麻の道立図書館内「北方資料室」に年譜1,2の別刷りが献呈されています。ただ基本的にはすでに組み込み済みでした。

谷万吉には「二風谷コタンのマンロー先生」『赤れんが』第 48 ~ 50 号(1977 年),第 51・53 号(1978 年)という文章もある。
「赤レンガ」という雑誌は自治労傘下の「全道庁」組合の機関誌かもしれません。これもネットでは探せません。


2.セリグマンとの往復書簡

そのセリグマンとの書簡も残されている。

31年2月に書かれた手紙

アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の項目は以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について
②アイヌの宗教の特徴
③中心的祭礼としてのイヨマンテ
④妊娠と分娩にまつわる習慣
⑤病気と治療、呪術、薬草など
⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

谷への書簡が書かれる1ヶ月前の36年11月にも、セリグマンあての手紙が書かれている。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。

38年7月に書かれたセリグマンあての書簡でも、このことは繰り返されている。
「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」(真実は細部に宿るということか?)

しかし、「Ainu Creed and Cult」として出版されたとき、この2章はカットされた。マンローがつけた表題「Ainu Past and Present」は採用されずに終わった。
セリグマンの妻で編集者であるブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

3.容易ならざる手紙

内田さんが紹介した手紙の中にはかなり悲惨なものも混じっている。

38年のセリグマンあての手紙では、生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。
二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

にも拘らず、「詳細で真実な情報を!」とさらに意気軒昂であったのだ。齢70歳にして何たるど根性か。


4.横浜開港資料館「開港のひろば」


という記事がある。
これにより以下の事実が確定

マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていた。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

自著によれば、インド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版した、とある。これがもし性格なら、90年の横浜寄港時に出版に回した可能性がある。

1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前あり。

1905年に、マンローが三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘。


5.木村チヨとの三角関係

もう少し詳しい経過が分かった。どうでも良い週刊誌ネタではあるが、「真実は細部に宿る」のだから、ここは我慢。

21年(大正10)7月 それまで毎年避暑に通っていた軽井沢に、「マンロー医院」を開業した。10月までの季節限定で、外国人避暑客を対象とした施設。これに合わせ神戸から木村チヨが引き抜かれ着任した。(誰が引き抜いたのだろう?)

24年(大正13)3月 マンローと木村婦長の恋愛問題に悩んだアデール夫人は、神経衰弱に陥る。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、アデールを強引にウィーンに赴かせる。

25年(大正14) 「マンロー医院」を母体に「軽井沢サナトリウム」が発足。通年マンローが診療を行う。7~9月は外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。

この間に関東大震災が挟まる。

それでどうなるかは、年表の方をご覧うじろ。

6.慶応大学岡本孝之さんの講義

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

なお岡本さんには「横浜のマンロー」岡本孝之 「考古かながわ」2004年12月号
という文章もあります。ネットで参照可能です。


7.桑原千代子『わがマンロー伝-ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』


1983 年に新宿書房から出された単行本で、身近な人が丹念に事実を調べており、その迫力は圧倒的です。しかし贔屓の引き倒し的なところがあり、細かなところで違和感を感じます。

また記載がトリビアルで、発掘調査の内容や意義、数多く書かれた文章についての論究はほとんど見られません。いうなれば「裏から見たマンロー」です。そうなると天邪鬼なもので、どうしても表から見てみたくなるのです。

8.内田順子さんのレポート
昨日、歴史館に二度目の訪問をしまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録「二風谷におけるマンロー: 最新の調査からわかったこと」が載っています。
実は、全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

上記記述の続きです。

本日、内田さんの講義録を閲覧しました。
「沙流川歴史館年報」の第13号です。札幌では、道立図書館に付設した北海道歴史資料室で閲覧が可能です。

講義はもっぱら、映像のデジタル化に伴う諸作業の紹介ですが、自筆書簡からの引用が非常にためになりました。

その主要部分をかなり年譜に取り込みました。結果的にはさらにかなり分厚くなっています。

なおこの「年報」に折込でついていた年表は内田さんの作成したものではなく、この年行われた「マンロー展」に合わせて館が独自に編集・作成したもののようです。

新たな増補分はすべて2019年11月24日 

に突っ込みました。ただすでにご覧の方には二度手間になるかもしれないので、増補分を下記に挙げておきます。


9.ネットで閲覧可能な主な文献


①平成17年度 国立歴史民俗博物館 民俗研究映像「AINU Past and Present-マンローのフィルムから見えてくるもの」:映画フィルムの資料批判的研究に関連する研究ノート    内田順子
PDFファイルのため直リンクは出来ない。検索窓に署名を入れてグーグルしてください。

② 伝統的知識の公開と「社会関係資本」としての活用 UKにあるマンロー書簡の社会ネットワーク分析を中心に
手塚 薫  国立歴史民俗博物館研究報告 第 168 集 2011 年 11 月
これも①と同じ方法で検索してください。

③ 鷹部屋福平はいろんな文献でくそ味噌に批判されているようですが、最晩年のマンローとおそらく英語での交友があり、あとのことを託されるほどの信頼を得ていました。

*鷹部屋福平「毛民青屋集」に基づいた1940年の二風谷村アイヌ集落に見られた建築物の実態
佐久間 学, 羽深 久
*鷹部屋福平の『橋のいろいろ』(1958 年 石崎書店)

これも未見です。図書館で探してみようかと思っています。

ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」これはおそらく桑原千代子の本を底本にしたものと思われます。

⑦手塚薫 2010「マンロー・谷往復書簡による社会ネットワークの復元とその活用」『年報 新人文学』7 : 216?263。
これも③と同じ手塚さんの文章です。まだ見つけていません。

⑧ラファエル・アバ 2005「ある外国人が見た日本列島の先史文化:N. G. MunroとPrehistoric Japan(1908年)」『北大史学』46 : 1?24。

英国の偉人の生涯をたどる『Great Britons』 - Onlineジャーニー
これもネットで参照できます。 

とりあえずこんなところです。