2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。


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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に、開業医ロバートマンローの長男として生まれる。一族はスコットランドでは名家のひとつで、祖先は14世紀まで辿ることが可能。

1865年 イギリスの箱館領事館館員のアイヌ墳墓盗掘事件が発覚。横浜の大使館に居た医師ウィリスの要望に基づくものとの説もある。ウィリスもエジンバラ大学卒業。

1869年 英国大使の要望により、外人患者用用地として山手居留地の一部(1千坪)が有償貸与される。(「横浜市史」では1878年とされる。

1876年 コナン・ドイル、エジンバラ大学医学部に進学

1877年(明治10) アメリカ人生物学者エドワード・モース、横浜から東京に向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見。発掘に取り組んだ学生グループから人類学研究者が輩出される。

1879年 

5月 モースが鹿児島に考古学の調査に入る。

79年マンロー、エジンバラ大学医学部に入学。1888年まで10年にわたり在籍。

1882年 エジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンが死去。ダーウィンも医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。「種の起源」(進化論)の発表されたのは59年。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川の河岸段丘で旧石器の発掘作業に加わる。

1886年 チェンバレン、東京大学のお雇い教師として来日。直後よりアイヌに興味を持ち、北海道でバチェラーのもとに一ヶ月程滞在。アイヌの調査やアイヌ語の研究を行う。

1886年 渡瀬庄三郎がコロポックル先住説を展開。これを白井光太郎が批判。

1887年 マンロー、病気療養のため大学を休学。その間チュニジア・イタリアなどを旅行。

2月 坪井正五郎、『東京人類学報告』第12号に『コロボックル北海道に住みしなるべし』を掲載。白井の批判に逐条反論を行う。これに対し小金井良精・マンローらはアイヌ先住説を唱え論争となる。

8月 坪井正五郎、埼玉県吉見の横穴(吉見百穴)を調査。コロポックルが住んでいたと主張。今日では墳墓説で確定したが、坪井は最後まで自説を曲げなかった。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位(MD)はとれず。「医学士」(MB)および「外科修士」の資格を得る。

88年 スコットランドを離れる。ペニンシュラ&オリエンタル汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。
“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)

88年(明治21) イギリス留学から帰った坪井正五郎、解剖学教室の小金井良精らを中心に東京人類学会設立。翌年には合同で北海道へ調査旅行。小金井はその後も、渡道を繰り返す。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O社)の船医になる。
後に妻チヨに当時の模様を語っている。
英国人はインドでも香港 でも現地の人々を激しく差別していた。さらにインド国内のカースト制による激しい階級差別も併存していた。

90年 インド滞在中に執筆した哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を寄港先の横浜で刊行。
アンコナ号は、当時香港-横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。チヨによれば入院は年余に及んだと言う。

8月 33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられる。

1892年 マンロー、退院した後横浜市内の自宅で開業。(病気治癒後、入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務:桑原)

来日後の数年間、マンローの足取りははっきりと掴めていなかったが、岡本らの研究で明らかになってきた。本年譜ではその所説を尊重する。桑原らによる従来説は別記する。

92年 ロシア人研究者シュテルンベルグが『サハリン・ニブフのクマ送り』を報告。イヨマンテはアイヌ古来の伝統ではなく、ニブフ(ギリヤーク)からの引き継ぎではないかと示唆する。

1893 年(明治26) マンロー、一般病院の第8代院長に就任。ただしこれは一般病院の「名誉碑」の記載であり、事実とは異なる可能性が高い。

ゼネラルホスピタルは「総合病院」の意味だが、市民は「一般病院」と呼び習わした。マンローは考古学に熱中し休職多く、前院長がその間引き続き代行したという。

1894年(31歳) 日清戦争に日本軍従軍医師として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(33歳) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の娘アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。

95年(明治28) 日本考古学会創立。マンローはこの頃から日本の遺跡に興味を持ち、勉強を開始したと語っている。

1897年 一般病院の外科担当医師となる。このときベルツが同院顧問医だたことから知り合う。ベルツを通じて発掘研究にふたたび興味を掻き立てられる(岡本)

また新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようだ。

6月 長男ロバートが誕生。レッツ家墓碑銘には記載あるが、マンローの戸籍には記載なし。

1898年(明治31) バチェラーの案内で最初の北海道旅行。白老のアイヌ村落を訪問(35歳)

8月 東大医学部教授のベルツが平取に入る。ブライアント看護婦に指導助言を行ったという。

1899年(明治32) 

1月 長男ロバートが死去。

4月 北海道旧土人保護法が制定される。実際にはアイヌ民族同化と資産収奪法であった。

7月 内務省、マンローに「医術開業免状」を交付。日本人の診療も可能となる。

1900年(明治33) 

11月 次男のイアンが誕生。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。マンローは講演の中で「貞観(じょうかん)時代」を「テイカン」と誤読した。高畠トクはその誤りを英語で指摘した。直後、マンローは、高畠に秘書兼通訳になってほしいと申し出た。トクは快諾した。

トクは明治10年生で当時23歳。旧柳川藩江戸詰家老高畠由憲・ゆうの次女。実家は明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1902年 東大の御抱え教師チェンバレン、鶴見で大規模な発掘を行う。マンローと交際があり、影響を与えた可能性がある。

1903年(40歳) 

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。(おそらく高畠とくが随行)

冬季 嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。
アデレーは声楽とピアノの得意な令嬢で、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった(いずれも桑原)

1904年

2月 日露戦争開始。

3月 マンローとベルツ、共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘。このとき41歳。

この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。(慶応大岡本孝之氏)
ゼネラルホスピタルの隣接地にメイプルズ・ホテルを開業。病院(サナトリウム)とホテルを兼ねた施設だったが、1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる(岡本)

4月 マンロー、ベルツと前後して二風谷を訪問。(谷の年表に記載なし)

9月 研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。古銭に関する英語入門書として好評を博す。横浜の好事家の集まり「横浜古泉会」が協力。
 
1905 年(明治38)

1月 東京人類学会に自薦入会。この頃学会内では、坪井と小金井らによるコロポックル論争が白熱していた。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、日本で外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る(戸籍謄本にて確認)

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。このときマンロー42歳、トク28歳。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 箱根一帯で発掘作業に入る。早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器時代の遺物とみられるものを発見。(現在縄文時代と呼ばれている時代は、西欧の時代区分では旧石器時代に属する)

8 ふたたび早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。

秋 三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見。その後7ヶ月をかけて発掘調査。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などを検出する。

桑原によれば、一つの縦穴住居跡よりほぼ完全な人骨群が発掘(こども1体、大人4体)された。マンローはこれを“アイノ頭蓋骨”と予想し、小金井に鑑定を依頼、合わせて発掘現場の検分を依頼する。小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断。

三ツ沢遺跡はその後も50年にわたり、日本人学者による調査が続けられた。主体は縄文中期から後期、一部弥生時代遺物も見つかっている。
人骨群は一つの住居跡に埋葬されていた。縄文時代の家族をうかがわせる。

12月 長女アヤメ(英名アイリス)が誕生。月数は多少合わない。

マンロー、遺跡発見の功を認められ、「王立アジア協会」の会員に推挙される。

ベルツ、東大での勤務を終えドイツに戻る。56歳

1906年(明治39)

2月 出産直後のトクを伴い、小樽・忍路のストーンサークルを実測調査する。おそらく縄文人骨の関連でアイヌに興味を持ったのだろう。地主の娘白井セイを通訳見習いとして連れ帰る。(セイは堂垣内元道知事の実母)

5月 人類学会の小金井良晴(解剖)がモンローのもとを訪れる。

7月 小金井良精らが、川崎の南加瀬貝塚の発掘調査。マンローもこれに参加。

マンローは一連の発掘報告の中で、層位的分析に基づいて縄文土器と弥生土器に年代的な差があり、縄文土器にも年代差があることを確認。

夏 この後さらに軽井沢古墳の調査を行う。軽井沢は信州ではなく横浜市西区南軽井沢の前方後円墳。

9月 「日本亜細亜協会誌」に、人骨の発見状況、頭蓋骨の計測所見を記載。いくつかの根拠を元にアイヌ人であると断定する。足立文太郎は、発見された人骨が南方x北方の混合種であると主張。

論文「日本の原始文化」(Primitive Culture in Japan)を「日本亜細亜協会誌」(Vol34-Pt2) に発表。南加瀬貝塚などの調査に基づき、弥生土器の年代評価を提起。


1907年 

6月~8月 東京人類学会雑誌に「後石器時代の頭蓋骨」、「アイヌ模様と石器時代模様」を相次いで発表。足立文太郎説に反論するなど旺盛に所説を展開。
マンローは縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのではないかと推定した。学会主流はマンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視した。

1908年(明治41) 

1月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を横浜で自費出版。長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものであった。
先史時代の日本


















































2月 「考古界」誌第6、7篇に「環状石籬と古代建設物の方位」を連載。ストーンサークルについて論じる。イギリスのドルメンに倣い、天体観測施設であると主張。

4月 東大退官後帰国していたベルツが伊藤博文の要請で再び来日。大正天皇(このときは皇太子)の診察を行う。ベルツ、マンローは二人で関西旅行し共同調査を行った(桑原)
実際にはベルツは広島に行き、マンローは京都で分かれて飛鳥の石舞台など大和・河内の古墳を歴訪した(岡本)

5月 権威付けのためにM.D(医学博士)の肩書きが必要と痛感したマンローは、20年ぶりに帰国。母校のエディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。学位論文は「日本のガンーその統計的検討」というほとんどでっち上げの論文だった。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。医学博士の学位を授与される(46歳)
その後、エディンバラ博物館の美術民俗学部門から正式な日本通信員に任命される。マンローはその後6年に渡り、アイヌ資料をふくむ考古学資料2000点以上をエディンバラに送り続けた。

7月 東京人類学雑誌268号に「コロポックルについて」が掲載される。坪井のコロボックル説を詳細に批判。石器、土器の使用はアイヌにも共通している。三ツ沢の縄文人骨がアイヌであることは確認された。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

10月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

10月 マンローの考古学研究状況が「Nature」誌に掲載される。


1909年(46歳)

2月 トク夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。
桑原さんは、とくさんになじるかのような冷たい目を注ぐ。さすがにそれはお門違いでしょう。

ベ平連で有名となった高畠通敏は、トクの義理の孫(養子の子)に当たる。

5月 日本アジア協会例会で、「ヨーロッパの旧石器と日本の遺物」と題して講演。

北海道旅行。東釧路の武佐貝塚を調査し、春採コタンで熊祭を撮影。マンローは件の女性を連れ歩き横浜に戻るとそのまま送り返した(桑原)

1910年(明治43)

5月 日本アジア協会例会で、「いくつかの故物と遺物」(Some Origins and Survivals)と題して講演。

5月 「大逆事件」フレームアップが開始される。

6月 「佐倉義民伝」を見た感激そのままに戯曲「宗五郎、その偉大なる愛」(Sogoro or Greater Love)を自費出版。上演されたかどうかは不明。

8月 日韓併合。

この頃からアイヌが日本の先住民という主張は姿を消し、アイヌ人に関する民俗学的研究に比重が遷る。桑原は、背景に大逆事件があったのではないかと考えている。

1911年(48歳)

1月 「先史時代の日本」第二版を自費出版。エディンバラでも発売される。「いくつかの故物と遺物」を論文として発表。

母死亡。帰国せず。

この頃、生活は極度の混乱。身の回りの世話をする小間使いと運転手を連れて、横浜市内で転々と住所を変える。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡(茂沢、宮平)で調査に従事。

1913年

8月 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

12月 東京人類学会の坪井会長がペテルブルクで客死。マンローは「坪井教授の業績」を人類学会雑誌に寄稿。

この年、北海道を大凶作が襲う。

1914年(51歳) 

10月 在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(33歳)と3度目の結婚。アデルの母は日本人。
ファブルブラント(James Favre-Brandt)はマンローに対し強い警戒心を持っていたが、すでに1年前から事実婚となっていたため承諾せざるを得なかった。

マンローは病院を3年間休職し、アデルとともに沖縄・九州 を旅行。鹿児島を中心に各地で発掘調査に携わる。これらはすべて親友の大山柏公爵の手配によるもの。

10 月 マンロー、鹿児島に滞在し発掘調査。垂水市柊原(くぬぎばる)の貝塚から「中間土器」を発見。

この年発行の「現代の横浜」によれば、当時の一般病院の院長はウィラーとなっている。留守中の院長職をウィラー前院長が代行したためである。

この年、第一次世界大戦が始まる。

1915年(大正4)

4月 考古学雑誌に「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。鹿児島での調査活動の成果となる。

マンローは土器の文様を主要な根拠にし、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張。後に進出した大和民族に追われ、周辺地に居住したことからツチグモと呼ばれるようになったと判断。また大和民族(南方由来)の象徴として中間土器(弥生土器)を特徴づけ、先住民(北方由来)のアイヌ文様と対比する。その他、熊襲や隼人にも先住民族として関心を寄せる。

9月 休暇2年目は北海道東部を訪れる。アデル夫人、写真技師ミッドワールを同伴する。釧路市内・春採のアイヌコタンを訪問し熊送りを体験。記録をとり写真に収める。また近隣(釧路公園付近)の発掘調査に当たる。
①98年、②09年夏と、マンローは3度も春採のイヨマンテを見たことになる。しかし98年はそもそも行っていない、誤記と思う。09年もトクとの離婚直後で行ける可能性は低い。

12月 亜細亜協会副会長に就任。

この年 北海道で冷害→飢饉となる。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛めたという。

1916年 

4月 釧路での体験と記録に基き、亜細亜協会で「イヨマンテ」について講演。英字新聞 The Japan Advertiser に要旨が掲載される。

5月 休暇3年目はふたたび北海道に入る。アデル夫人、写真技師ミッドワールにコック夫妻が同行。今度は白老に2ヶ月ほど滞在。木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究を始める。この間に、研究の比重は考古学から生きた人間をあつかう民族学へと移っていく。

当初の人類学の範疇は大幅に広がり、大まかに言って形質人類学、民族学、考古学へと分かれていく。このうち民族学は民俗学、あるいは文化人類学とも呼ばれるようになる。マンローの当初目的は日本人のアイヌ起源論にあったが、セリグマンは強引に結論づけるよりはアイヌ文化の実証研究を積み重ねるよう勧めた。

1917年(大正6) 

3月 日本亜細亜協会で「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者(鳥居龍蔵、梅原末治)から反論。(詳細は別記事に)

桑原年譜では、「ドルメン論争で、鳥居らへの反論のため日本的特殊事情に気づき、その後アイヌ研究へと集中していく」と書かれている。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。小金井良精らが招待される。

夏 軽井沢に岳父らとともに避暑に赴く。診療も始める。このあと何年か、軽井沢の医業に集中する。

史料により著述が錯綜するが、現地の証言を元にした桑原の記述が最も一貫している。
これによれば17年が初めての軽井沢避暑体験。岳父と夫妻が現地に滞在する。そのうちに診療もするようになった。はじめは外人タッピングの別荘を借りて診療を開始した。その後、京三度屋裏から萬松軒別館を買い取り、洋風に改造した。そして二、三年後にマンロークリニックとして開業した。

10月 ロシア革命が勃発。

12月 マンローは北海道庁からアイヌの生活実態調査を諮問される。白老での調査をもとに「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年に公表される。この調査を機会に考古学からアイヌ生活・文化に関心が移行。

道庁はアイヌに関する5つの質問を発している。その中心は「アイヌは高等なる宗教を理解し享益し得るか?」にあった。
マンローの答えは次の通り。アイヌ=コーカシアン説にとどまらない「Dance with Wolves」範疇を打ち出している。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。
1918年(56歳)

2月 哲学書「生ける者の魂」(Soul in Being)を自費出版。

3月 道庁、マンローの「旧土人に関する調査」上・下を「北海之教育」に掲載。

答申のほぼ全てがアルコール問題。アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらし、これに外来伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。和人の差別がこれを助長しているとし、禁酒を第一の対策とする。
対策としては、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。

この年、米騒動が発生、全国に拡大。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

このあたり、「枯淡の境地」に入ったかのごとく見える。

1921年(大正10)

ドイツ大使館侍医に就任。(58歳)

7月 マンロー、外国人避暑客を対象とする「軽井沢国際病院」の兼任を受諾。この病院は以前からあったが、夏季限定の診療所だった。経営母体は外国人が組織した「軽井沢避暑団」という団体。

以下は桑原からの引用。
マンローは院長就任の条件として、優秀な婦長の就任を持ち出した。マンローは神戸クロニクル社長より神戸万国病院の婦長木村チヨを紹介された。

チヨは1885年生まれでこのとき36歳。香川県高松市のべっこう商の娘で、高松の日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。日露戦争に従軍し宝冠章勲八等を受けた。神戸の万国病院で婦長として働いていたが引き抜かれたという。

21年 京大考古学の浜田、鹿児島での発掘調査から、縄文土器と弥生土器の違いは、時期差によるものであることを証明。開聞岳の噴出物をはさんで上下の関係が決め手となる。

1922年(大正11)

1月 神戸の新聞Japan Weekly Chronicle 社長の怪我を治療。これが契機となり、同紙に、「知性のなぞ」(The Riddle of Mentality)を発表。

9月 内村鑑三がマンロー家を訪問。「多方面にわたる大学者」と賞賛。マンローは内村が交通事故で負傷したとき治療にあたった。

11月 改造社の招待でアインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。このときアインシュタインの依頼でドイツ大使館勤務のユダヤ系女性を診察する。彼女は精神病の疑いをかけられ解雇の危機にあったが、マンローが謙譲であることを証明し解雇を免れたと言う。 

1923年(大正12)

1月 Japan Weekly Chronicle に、「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。相対性理論への傾倒ぶりを示す。

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

夏 金田一京助、二風谷を訪問調査。久保寺逸彦が同行。

8月7日 アデール夫人の父ファブルブラントが大動脈破裂で死去(82歳)。

8月25日 横浜に戻り葬儀を済ませた一家が再び軽井沢へ戻る。

9月1日 関東大震災。軽井沢で働いていたマンローは無事だったが、横浜の自宅は全焼し、機材等は全滅した。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰す。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。焼失した英領事館の敷地内に建てたテントで、怪我人の手当や防疫に奔走した。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。これを機会にマンローは病院を辞し、軽井沢に居を移す。

1924年(大正13) 

1月 マンロー、軽井沢サナトリウム(旧称国際病院)院長に正式就任。7~9月に限っては、外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。夏季以外の閑忙期はマンローがテナントとなって開業していた。
軽井沢サナトリウム

3月 ファヴルブラント家は破産。妻の実家の財力をあてに運営していたサナトリウムは大幅な赤字を計上、マンローは多額の負債を抱える。(桑原によればファブルブラントは破産せず、息子が横浜で経営を再開)

貧乏とマンローの浮気の双方に悩んだアデルはヒステリー状態になる。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、フロイドあて紹介状を持たせアデールをウィーンに赴かせる。


1925年(大正14) 

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。
セリーグマンは、一般化を焦らず、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう助言。(最も信頼する人間からのきわめて重要な助言だ)

29年 アデール夫人からの音信が絶える。谷宛書簡によれば、この後木村チヨと親密になるとされているが、もっと早くからだろう。

29年 日高・釧路地方のアイヌ遺跡調査のため来道。アイヌに結核が多いことに驚き、研究ばかりでなく救済活動も行うようになった。

1930年 (67歳)

5月 セリーグマン教授自身が推薦者となり、ロックフェラー財団からのアイヌ研究助成金が実現。150ポンドと言うがどのくらいのものか分からない。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月にわたり滞在。ペテゴロウが現地ガイドを務める。

12月25日 イオマンテ(熊祭り)の記録映像を撮影。貝澤正は31年としているが記憶違い。
熊送り

1931年(68歳) 

2月 セリグマンあての手紙。
アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の章立ては以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について ②アイヌの宗教の特徴 ③中心的祭礼としてのイヨマンテ ④妊娠と分娩にまつわる習慣 ⑤病気と治療、呪術、薬草など ⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

7月 二風谷永住を決意。貝沢シランペノより宅地(約5千坪)を購入し登記完了。自宅建築の準備を開始。二風谷を選んだのはバチェラーの勧めだったといわれる。
イソンノアシ
マンローと二風谷の長老イソンノアシ

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

31年 バチェラーはイヨマンテの映像を、「残酷野蛮な行事を公開するのは、民族の恥をさらす心ないやり方」と批判。
マンローは下記のように当てこすり。
ある善良な人たちは、アイヌが熊の血を飲むことに批判的です。でも、血の滴る牛肉を食べ生カキをまるごと飲み込むことは何とも思っていません。最高の文化人たちは、血と肝臓でできた腸詰めをおいしいと食しています。(ある宗教では)神の肉と血が、少くなったのでパンとブドウ酒が用いられるようになりました。
そして「バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。トクの知人のフランス人夫妻に身元を託す。リヨンに絵画と刺繍の勉強に赴く。

6月 邸宅の外側が完成。外から見ると2階建て、中は3階建て。内部の造作は遅れる。邸宅は完成しておらず、借家の方に荷を解く。

8月 ロンドンで第1回国際先史学・原史学開催。マンローは文書参加。「九州の先史時代の遺跡」の原稿を送る。この論文は34年発行の紀要に収録される。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

当時結核が猛威をふるい、35戸のコタンから年間27個の柩を出したと言う。子供を加えると死者の数はその3倍に達した。診療は一切無料で貧窮に喘ぐ患家へは米・卵類を与えた。子供達にはチヨ夫人手造りのビスケット(マンロー・クッキー)が配られた。(桑原千代子

10月 乙部の請負人が自殺。このため邸宅の建設が遅れる。

12月16日 二風谷の仮住まい(商店の倉庫)が火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う。心痛のあまり狭心症発作で倒れる。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1933年(70歳)

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 マンロー邸が完成。木村チヨ名義となる。
白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨ夫人が看護師として手助けした。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」
アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)
マンロー邸入り口
       マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
            湖側に向いた東側面
5月16日 マンロー、北海道釧路市を訪れ上別保の東釧路貝塚で発掘調査。

5月17日 マンロー、釧路考古学会顧問となる。返礼としてテームズ河畔出土の旧石器を考古学会へ寄贈する。チヨとともに講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと直行し入院となる。

6月 日本アジア協会から、二風谷住居火災に対し救援金が贈られる。同時に、多年にわたる研究に対し表彰状が送られる。ドイツ・アジア協会、外人牧師団、軽井沢避暑団からも火災救援金が贈られる。本国の大英学術協会が中心となり救援委員会が設置される。英国の有志からの寄金も到着。

7月 フランスのリヨンに留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で結核を発症。エリオ荘病院で大喀血し死亡。現地滞在は1年3ヶ月にとどまる。遺骨は翌年に戻る。移送したのはギリシャ哲学者瀬川三郎という篤学の士であった。
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     アヤメ(アイリス)
7月 療養を終え、そのまま軽井沢で秋まで診療に当たる。その後41年まで、夏季の軽井沢サナトリウムでの仕事(資金稼ぎ)が恒例となる。谷あての手紙では、二風谷での患者は1日2~3名。無料診療費が月平均30~40円かかったとされる。

10月 軽井沢から釧路に移動し、18日をかけて各地を移動。白糠、弟子屈、阿寒、美幌を現地調査。木村チヨ、貝沢善助、若宮カメラマンが同行。
それだけの金があるなら、大家に多少の金は渡すものだろう、と思う。

11月 釧路での調査を終え、二風谷に戻る。

12月 マンロー邸の前庭にアイヌ家屋(チセ)のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。さらに翌年にかけて悪霊払い・病気の平癒祈願の「ウエポタラ」と家の新築祝いの儀礼である「チセイノミ」の記録を行っている。

33年 英国王立人類学研究所の通信員となる。名刺には公式通信員と書かれた。このあと定期に通信が送られている。

1934年 

5 月 セリグマン宛ての手紙。診療のためにひっきりなしに仕事が中断させられると嘆く。原因は研究者の立場を逸脱しているため。
マライーニの述懐: 朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。
マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。
もう一つ、セリグマンあての手紙
8 ヶ月間、ひとことも英語を話していない。Kimura さんとの会話の多くは日本語になります。その結果として、あなた(Seligman)に手紙を書くときは、まるで長らく音信不通だった兄弟と話をしているみたいに、急きたてられるように言葉がほとばしり出るのです。ほっとします!
夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

8月 英字紙に「アイヌの暮らしーいまとむかし」を連載。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

8月 「人生と真実、存在の謎」(Life and Truth, Riddle of Existence)を吉川弘文館より発行。

二谷文次郎の紹介を受けた道庁職員の谷万吉が自転車でマンロー邸を訪ねる。当時谷は平取役場に出向していた。以後マンローと家族ぐるみの交際を続けた。
離婚調停や様々な噂の抑圧に努力し、困窮するマンローに食料品を贈るなど、死亡までの困難な数年間を親身に支えた。マンローは谷を何よりの力と頼りにし、心打ち明ける手紙を何通も書いた(小柳伸顕)

マンローは谷あての手紙で32年末の失火事件についてこう書いている。
その男たちは私心からでなくて、私を日本国の敵と思い込んで放火したのだと思う。
ただし、類焼したM家倉庫の弁済責任を逃れるために、放火説を主張しつづけたという説もある。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で4日間にわたり「熊祭り」映画を制作。セットではなく二谷国松家で撮影された。マンローもこれに協力。久保寺は「マンロー邸で二谷さんとのツーショットをマンローに撮ってもらった」と語っており、下図はその時の“ついでの1枚”であろう。
マンローと二谷
夏季 軽井沢で診療に従事。

9月 谷あて書簡。二風谷の自宅及び土地の処分を希望。結局実現はしなかった。

秋 マンローが無許可で病人の治療をおこなっているとの噂が広がる。近隣の医師が流したらしい。これは事実であった。これに対し谷と二谷は診療所開設に努力した。

11月 セリグマンあての手紙
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。
11月 谷の尽力で、診療所開設届を北海道町に提出。①略歴、②二風谷に居住し、アイヌ研究に専念するに至った動機、③二風谷の医療の状況、無料診療の実態、④平取村のアイヌの健康状況について、社会課より質問があり、谷を通して回答。道庁は診療所を認可する。

12月 谷を通して診療所の開設届を提出。静内・新冠・沙流三郡医師会に加入。

午前中は研究,午後は診療に当てていた。午前三時頃には起き研究資料をタイプしていた。これらの資料はロンドンのセリグマンの元に送られた。雪の日の往診


12月 谷宛書簡。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。
1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で住民が石炭塊を発見する。アイヌの人たちと対応を協議する。

1月 二風谷の“マンロー診療所”が正式の営業を開始。
私が見た病気は、結核のあらゆる病型、消化器疾患のほぼ全てが回虫症、トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染、膿痂疹や疥癬は貧困層では当然のことである。心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ないる。精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。(診療所開設届につけられた諮問文)
2月 2.26事件発生。

5月 この月を以ってロックフェラーの研究助成金(2回め)は終了。家計は厳しさを増す。

5月 「“波粒子”理論で人間の生理的過程を説明する」という連載記事を英字紙に発表。おそらく量子力学的説明だろうと思う。

6月23日 アデールと協議離婚成立。最後はスイス領事館への通告のみで終結。アデルは遺産となった3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算した。

ここでも桑原は徹底してマンローの酷薄ぶりをアピール。アデルからは年に数回便りがあったが、マンローは無視。どうにかして離婚出来ないか、そればかり考えていた。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。道庁の仲介にてマンロー夫妻は札幌に出向き面会。その後洞爺湖・有珠方面をめぐり二風谷に戻る。

6月30日 木村チヨと正式に結婚(マンロー74歳、チヨ52歳)。谷は知り合いの弁護士を紹介するなど積極的にかかわる。

7月 この年二風谷にアイヌ家屋調査に入った北大工学部の鷹部屋福平がアぽなし訪問。桑原は敵意に近い反感を顕にしているが、これはチヨの気持ちを反映したものなのか。

7月 論文「アイヌ/むかしといま」が完成。

夏 この年は軽井沢にゆかず、二風谷での研究に専念。マンローは地元民に、二風谷に結核療養所やスケート場を建設する構想を語る。マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。

9月 遺言書を書く。

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     マンローと千代

1938年(75歳)

3月 「ヤイクレカラパ/老アイヌの祈りの言葉」を発表(“Man” Vol38 No3)

4月 イタリア人人類学者のフォスコ・マライニイが、日伊交換留学生として北大解剖学の児玉研究室に着任。二風谷に赴きマンローの指導を受けた。(このとき26歳)

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌの結婚式の記事が掲載される。

7月 セリグマンあての書簡 「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」と、書物への意気込みを語る。いっぽう生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

夏 この年も軽井沢に赴かず。

9月 報知新聞でマンローの経済的苦境が報道される。北海道庁は救済計画を立てたが実現せず。

10月 不仲だったバチェラーが、姪を伴い二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。マンローは切除術を施行。これを機に両者は和解。

10月 アイヌ部落で「マンローはスパイだ」とのデマが発生。マンローは警察に調査を依頼。

1939年

1月 日東鉱山の従業員が「マンローはスパイだ」とのデマを流布。マンローは警察に調査依頼。
二谷から谷への手紙。
最近、先生が二風谷でスパイのデマを撒き散らされている。その源は大方奥のシャモの酒売り店の者と思うが、善良なるウタリ内までその口車に乗せられて、失礼なデマを振り撒いている。(「酒売り」は、火事で仲のこじれた、かつての家主だとされる)
2月 マライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

76歳となったマンロー、自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考え各方面に相談。しかし邸宅は平取村長や日高支庁などの配慮にもかかわらず買い手が見つからなかったという。釧路新聞は「コタンを去るアイヌ博士を救え!」と救援活動を呼びかける。

4月 マンローから谷あて書簡。二風谷では道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲っているようなので気が重い。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。

7月 第二次近衛内閣が成立。

8月 軽井沢で診療。京都の佐伯義男医師が来訪し、考古学・人類学に関する執筆を依頼。これは近衛文麿の援助のもとで日本語で出版する企画であったが、時局の変化により実現せず。

10月 札幌に戻る。北大北方文化研究室で「アイヌの宗教の祈祷・躯疫」講演。医学部解剖学の児玉教授が司会、工学部の鷹部屋教授がマンロー紹介を行う。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

39年 イギリスにおけるマンローの理解者であり、庇護者であったセリーグマン、アフリカで現地調査中に客死。

1940年(77歳)

岩波書店社長の岩波茂雄、マンローの、アイヌ無料診療と人類学への貢献に対し感謝金1千円を贈る。

北大工学部の鷹部屋福平、「毛民青屋集」を著す。この間にマンローの知己を得、58年の『橋のいろいろ』という本の「マンロー先生」という 1 章で回想されている。

先生は旅費を負担し各地のアイヌ古老を呼びよせた。そしてアイヌの風俗習慣は勿論、宗教から天文・数理・彫刻・刺繍・狩猟など細大もらさず聴かれた。それらの話のうち、少なくとも複数のアイヌが一致する言葉のみを著述にうつした。
中でも傑出した役割を果たしたのが二谷国松で、マンローは「私の百科事典」と賞賛していた。
老人達はアイヌ語だが中年以下の人々はほとんど日本語を使うようになり、チヨが東北訛りの強い日本語を英語に通訳してマンローに聞かせた。

1940年の二風谷
    1940年(昭和15)の二風谷集落図 鷹部屋福平の作成したもの
家屋1
家屋2
図3の方は旧土人保護法に基づく資金援助を受けた改良住宅である。手前の坂がマンロー坂と思われる。

夏 軽井沢に出張診療。この夏は特に多忙だった。「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた子の手当。78歳の男には限界です」と書き記す。
「病院関係者はほとんど日本人になったが、皆親切だ。来年もまたきてくれという」谷あて書簡

軽井沢からの帰り、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。

1941年

1月 血尿が認められるようになり、腰の部分のしこりにも気づく。

5月 北大医学部付属病院を受診し腎臓と前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。

10月 診療困難となり二風谷に戻る。チヨ夫人の他に高畠トク、岡田久医師、規久枝嬢が同行。

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

12月 診療を断念、臥床するようになる。福地医師が定期診察を行う。

毎夏の軽井沢出張診療の報酬だけで経済を支え、無料診療を続け、春までの食料の他一銭もない極貧の中で生涯を終った。(桑原千代子

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

1月 健康が優れず、ほぼ病床に伏す(谷の年表)

セリグマンへの手紙: 戦争が始まってから、私の仕事にたいして驚くような豹変振りが続いている。
私が日本国民であること、貧しい人びとに無償で医療を施してきたこと、そして誰にも無害な人物というのがいままでの評判だった。しかし今、そんなことは何の価値もない。

3月 衰弱が進行。岡田医師が応援に入る。

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

死亡前、マンローは後事を鷹部屋に委ねた。家屋敷その他は一括売却された形になっている。記念館として保存したいという意向もあったので、チヨ夫人はすべてを預けたのではないか。その際に預けたのか売却したのかという行き違いはあったかも知れない。
一教授の私費で屋敷を維持するのはそもそも不可能だ。しかし当時としてはそれ以外に道はなかった。さらに鷹部屋は戦後まもなく九州大学に移っており責任を取りにくい立場にあった。
鷹部屋がマンローのことを真剣に考えていたことは疑いない。彼は高畠トクとのインタビューも行っている。桑原の高畠情報は基本的には鷹部屋から得ていたようだ。

4月14日 マンローはアイヌ・プリ式の葬儀を希望していた。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。しかし実際は、聖公会平取教会で函館教会前川司祭の進行で行われた。

遺体は遺言に従い火葬された。遺骨の一部は軽井沢に、他は二風谷のトイピラの丘に埋葬された。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。


軽井沢には妻のチヨの手で墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 イヨマンテのオリジナル・フィルムは、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきた。

マンローは邸とアイヌ関係資料の管理を北大の鷹部屋福平に託した。桑原によれば、鷹部屋は生活に窮しマンロー邸を資料ごと売り払った。(桑原は鷹部屋と面識があったが、この件で裏はとっていない。鷹部屋はマンローに深く関わっており、

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、セリグマンの妻で編集者であるブレンダにより「Ainu Creed and Cult」として出版される。マンローがつけた表題「AINU Past and Present」は採用されなかった。後から加えた2章もカットされた。ブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

1946年 伊福部宗男がマンロー邸で病気療養。この間に長男達が生まれたとされる。同じ建築学関係の鷹部屋が貸していたのであろう。伊福部家は秀才揃いで、宗男の弟がゴジラの昭。

1958 転売を重ねた末、競売にかけられるが買い手はつかず。

1962 ロンドンで「アイヌ:信仰と儀礼」と題する遺稿集が出版される。 

イギリス大使館員のフィゲス、英国文化振興会長のトムリン、競売にかけられたマンロー邸を私費で買い取る。

1965年 戦後転売を重ね、廃屋となっていたマンロー邸が競売に出される。英国大使館の関係者が私費で購入した。

65年 フィゲス、トムソンの訴えに日本人有志も協賛し、「マンロー記念館」設立計画が始まる。地元にも協力会が設立され、主治医の福地医師が会長、二風谷の貝沢正・松太郎が副会長となる。

65年「イヨマンテ」の35mmポジプリントが「発見」される。東京オリンピア映画社が、熊送りの儀礼部分を中心に再編集し、『イヨマンデ 秘境と叙情の大地で』を制作。
映画冒頭
                映画の冒頭
65年 朝日新聞の北海道版にマンロー顕彰運動についての詳細な記事が掲載される。死因等不正確だが、はじめて多くの人に存在を知らせた。

65年末 話は一転。マンロー邸が北大に寄贈されることとなる。三笠宮立ち会いのもとに寄贈式が行われる。

1966年 北海道大学北方文化研究所二風谷分室および文学部二風谷研究室として整備される。
館の管理にかかわった北大事務職員の出村文理は、2006年に「ニール・ゴードン・マンロー博士書誌」を出版。

1969年 伊福部宗男(伊福部昭の兄)が「沙流アイヌの熊祭り」を発表。マンロー没後、邸宅内の資料は鷹部屋福平が管理していたことを明らかにする。貝澤正は、鷹部屋がマンロー館と資料ともども8000円で売り払ったと証言。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去(89歳)。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。チヨは、マンローの死後も軽井沢で婦長として働き、老後は神戸で送った。
マンロー夫婦の旧墓
           マンロー・チヨ夫妻の旧墓

マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…
なお墓碑銘に並ぶ桑原千代子さんはマンローの熱心な紹介者だった。