人間においては、神経回路を駆使する脳の活動(神経活動)が常に行われている。特に覚醒時に活発ではあるが睡眠時においても途切れることはない。

この神経活動のほとんどは無意識下に行われている。その一部が意識された過程となっており、これは広義の精神活動と言える。

意識活動のほとんどは自発的なものであり、とくに意思による操作を求めていない。しかしそれが蓄積されれば一つの傾向を生むだろう。それはひとりひとりの遺伝的特質や生活環境に応じて個別性を帯びており、人間という共通の土台の上で個性を生んでいく。それが習得・発達という側面をもつため、人格と呼ばれることもある。

往々にして混同されるが、これらの事象と「心」の問題はまったく関係ない。

この問題を前野さんは、身体と「心」の比較という切り口で分析している。なかなかに鮮やかな切り口である。

「もしこころが脳にではなく心臓にあるとすれば、それは何をするのだろう」、というのが前野さんの問いかけである。ほとんどすべての精神・神経的な作業は脳で済んでしまうだろう。
とすれば、心臓は他者としてそれを眺め、評価し、我がものとして受け入れる以外にない。西田幾多郎の言う「絶対矛盾の自己同一」だ。なぜなら心臓には自前の作業用具はないからだ。いわば象徴天皇のようなものだ。

例えばなしはこのくらいにするが、脳が思考を我がものとして意識する過程は、現実にはどこかに局在するというわけではない。脳のあらゆる部位でさまざまな様式で繰り返されている。
意識する過程は、時としてスクリーンに投影される。それはきわめて鮮やかであり、視覚領域にあるかのように感じられる。そこに映像として映し出される。それが音像である場合もあるかも知れない。

心は意識の過程を感知するセンサーであり、自分を見つめるBy-standerである。前野さんはそれを「再帰的意識」と呼んでいる。それは個別の意識過程が自分の内部で生じていることを確認する。

人間は「心」という他者を内在するがゆえに、自己の存在証明が可能となるのだ。