前野さんの主張は多岐にわたっており、そう簡単にまとめることは出来ない。

ただ、私の主張に惹きつけて見るなら「心」というのは思考過程のごく特殊な一部だと言うことだろうと思う。

「思考」という行為は、自然に思いが浮かんで来るということではなく、目的を持った過程である。

それは目的により規定された過程だ。そしてその目的が内観的・内省的な方向に向けられたとき、そのような思考過程を「心」の過程と捉えることになるのであろう。

一方、思考過程の多くは自己以外の対象に向けられている。思考というのは意識的な過程であるが、その数十倍、数百倍の頻度で無意識的な過程が営まれている。

この思考過程(意識的か無意識的かを問わず)は、いうまでもなく身体的活動過程の一部である。

人間は1日24時間の活動のほとんどを思考以外の活動に費やしている。

だから自己に向けた内観的な「心の活動」は、意識的な思考活動の一部であしかなく、脳みそを使う活動の中のほんの一部でしかない。

同時にそれは人間の諸活動の中ではほんの一瞬を占める活動でしかない。

これが脳の能動的活動の全体的なアーキテクチャーなのだろうと思う。

ここでは「心」の活動を思い切り絞り込んで定義しているが、もっと曖昧な「心持ち」とか、もっと広く定義することもできよう。しかしパソコンに出来ないような心の活動に絞り込もうという前野さんの意見には大いに賛成である。

前野さんは「心」というのは錯覚だとか誤解だとか言っているが、それはちょっと極論で一種のたとえであろうと思う。
「自分に向けられた、自己を対象とする思考」などという行為は、膨大な日々の人間的活動の中ではきわめてちっぽけな割合しか占めていない。
そこが「心」を考える上での最大のポイントだ、というのを強調するためであろう。

正確に言えば、「心」の活動は決して小さいものでも、とるに足らないようなことでもない。なにせそこから哲学は出発するのだから。

問題はそういうことではなく、それ以外の脳の活動の分野がギガとかテラというレベルで、べらぼうに大きいという事実を踏まえることなのである。


前野さんの最大の理論的功績はフィード・フォワード理論の拡張と、これによる自己意識の形成への道のりなのだが、これについては明日また考える。
たぶん時間軸の導入によりダイナミックな形成過程論を展開できるのだろうと思うが、これは視覚と記憶の問題が深く関わってくると思う。