ギリシャ哲学の根っこはソフィストたちの議論の中にあると思って勉強し始めたのだが、どうもそれ以前のミレトスの自然哲学こそが大もとで、議論の論点はすでにそこに出尽くしてるのではないかという気がして、作業が止まってしまった。

そこで、そちらの仕事はとりあえず脇において、ミレトス学派の勉強に取り掛かることにした。

実は、最近「脳はなぜ心を作ったのか」(筑摩書房/2004年)という前野隆司さんの本を読んで、えらく刺激になったのだが、感想があまりに莫大すぎて、どうもまとめようがなくて困っていたところだ。

とりあえずの結論は「哲学しなければいけない」ということだったが、まさにそれがミレトス学派の課題でもある。

そこで、まずこの付近から問題意識を整理していくのが良いかなと思いついた次第である。

「壮大な挫折」に終わるかも知れないが、まずは手を付けてみよう。

まずは背景事実の整理から。

イオニア人とミレトス地方

歴史的/地理的把握
ギリシャ人の南下

世界の歴史まっぷ」というサイトにわかりやすい図があったので転載させていただく。

この絵からわかることは、

1.ハンガリーあたりから北方系の人が南下してきて、ギリシャ半島からエーゲ海に進出し、さらにトルコ(小アジア)の西岸に植民したということだ。

2.南下の波は2回あって、最初が紀元前2千年頃、2度めが紀元前1200年ころだ。最初に南下した人々はギリシャ半島にとどまり、アテネやスパルタなどの都市国家を建設した。
あとから南下した人々は、3つのグループに分かれ、さらに小アジアへと進出した。
しかしこの図からは、彼らが半島を素通りしてエーゲ海へと赴いたのか、それとも例えば半分は半島に残り、残りの半分が進んだのかは分からない。また先住者との関係が友好的だったのか敵対的だったのかも分からない。

3.南下した人々は、おそらく言語的特徴により、3つの地域的グループに分かれた。
エーゲ海の北半分を占めるイオニア人、南半分を占めるドーリア人、またトロイア周辺にはアイオリス人の集団が居住した。
それ以外に、半島の主部には西北方言(アカイア語)をしゃべる雑多な群の人たちが居住していた。
これらのグループの入植順や優劣関係などはこの図からは判定できない。
しかし、良く出来た分かりやすい図である。
ここには掲げないが、もう少し詳しい地図もあって、それではアイオリス人がテーベを中心とするギリシャ半島の主部を支配し、イオニア人の世界にくさびを打ち込む形でトロイアにも進出しているように見える。
想像するに、南下の順はドーリア人、イオニア人、最後に最強のアイオリス人ということではないだろうか。

この点に関して、歴史書の記述はかなり様相を異にしているが、今はその点にはこだわらない。


イオニアとフェニキア人

イオニアはイオニア人が住むからイオニアという身もふたもない話だが、アテネのイオニア人が入植してできたポリス群である。そしてその最大のものがミレトスということになる。

それではイオニア人はなんの軋轢もなしにイオニア地方を手に入れることができたのだろうか?
この辺も、また分からないところである。

そこでまた「世界の歴史まっぷ」のお助けを乞う。
フェニキア人とイオニア

この図でわかることは、

1.第二期のギリシャ人の大移動が終わったあと、連続して地中海各地への進出/植民が始まったこと

2.進出を担ったのは南部、西部へのドーリア人、東部、黒海方面へのイオニア人であり、イタリア半島南部へはアカイア語グループが進出したことである。

3.フェニキア人はすでに制海権を奪われ、寸断されている。ギリシャの卓越した海軍力が伺える。

4.居住地の色分けと進出路の色分けが一致しないのは、解釈のしようがない。他の図を参照する必要がある。

5.この時期にアイオリス人の活動が見られないのは、紀元前1200年頃に起きたとされるトロイ戦争の影響があるのかも知れない。


イオニア人社会におけるミレトスの位置

前11世紀に創建された。最初はクレタ島からの移住者と先住のカーリア人により構成された。

紀元前1千年頃にアテネに征服され、その植民都市となったが、のちにミレトスそのものが80以上の植民地の拠点となった。

前8世紀半ば、イオニアでホメロスの詩編が成立したとされる。

ギリシア語のアルファベットは、前800年頃にフェニキア文字を借りてミレトスでつくられとされている。エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入した。

前6世紀 タレスらミレトス学派を生み、文化の中心となる。

前6世紀に隣国リディア、次にペルシアに服従する。

前500年にペルシア帝国に反乱を起こし、前494年にラデー沖の海戦に敗れて陥落。街は徹底的に破壊された。

この後文化・哲学の中心はアテネに移っていく。


なぜミレトスは自然哲学を生んだのか?

ミレトスの三賢人の思想は自然哲学として一括されているが、人類史に引き寄せてみれば、それは「科学哲学」と呼ばれる方がふさわしいと思う。

事物の根源を突き詰めるということは、科学の精神そのものである。
彼らはまさに「科学して」いたのだ。

もう一つは科学が否応なしに持つ批判精神である。それは既存の常識に対する挑戦であるから危険も伴う。

ミレトスは紀元前1千年から500年にかけて世界の交易の中心であり、知識の集結点であり、人種と文明の交差点であり、自由と平等の街であった。

一言で言えば無国籍都市であった。だからコスモポリタンの発想が支配したのだ。
自然哲学の祖タレスはフェニキア人の出自である。

前700年からペルシャに滅ぼされるまでの200年余り、羊毛ばさみ、手碾き臼、ぶどう絞り機、起重機が発明された。

イオニアはすべてのものの発祥の地となった。ギリシャ文字、ホメロスの神話、市場経済、貨幣がそれである。しかしそこには官僚制や常備軍や雇い兵制度はなかった。

ミレトスはギリシャ文字を生み出し、ホメロスを生み出した。そして神話の否定者をも生み出したのである。