プラトン年譜を、イデア論形成過程を中心にざっくりと

アテナイの人、貴族出身 紀元前427年 - 紀元前347年

どんな人か

ギリシャの孔子と目される。基本は教育者、哲学者。しかし政治への色気を捨てきれなかった。

哲学的には観念論の創設者であり、形而上学・主体論の提示者である。また方法論としての弁証法の創始者である。

プラトンの弁証法

著作の大半は対話篇という形式で、ソクラテスを主要な語り手とする。

一つの連関と他の連関との類比関係を「対話」(問答)の中で明らかにする弁証法という手法を編み出した。

プラトンの弁証法は認識の手段としてのみ位置づけられている。
内在的弁証法、すなわち事物の現象過程や諸概念の運動としては考えられていない。

ただし青年期にヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想に影響を受けているようだ。

彼の書物の性格

彼は先行したソクラテスらの論客(ソフィスト)の考察や見解を集大成した。まさに著作そのものが諸弁証の集大成「文殊の知恵」であろう。

ソクラテスの死がもたらしたもの

紀元前404年、アテネはペロポネソス戦争に敗れる。親スパルタ派30人による独裁政権が樹立される。  

紀元前399年、プラトンが28歳のとき、ソクラテスが独裁政権により死刑宣告。毒杯を仰いで死した。

対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索した。この頃の著作が『ソクラテスの弁明』『クリトン』などである。

したがってプラトンの内面では、絶えず変遷するモノと、一貫して変化しない「本質」との対話が続いたと思われる。

中期 ピタゴラス幾何学の受け入れとイデア論

紀元前388年 39歳で第一次シケリア旅行。2年にわたり滞在し、ピュタゴラス派およびエレア派と交流する。

この頃の著作が『饗宴』などである。彼はピュタゴラスを全面的に受け入れる。しかしそれは悟性的な知恵であり彼の考える弁証法的な知恵と正面衝突せざるを得ない。

そこで彼は感覚を超えた実存としての「イデア」概念を構築する。「物事」に対する「本質」、感性的知覚に対する知性的認識の優位を主張。これでピタゴラスとの折り合いを図る。

感覚的事象からの脱却は、相対主義から抜け出せないソフィストとの決別も意味する。

真理というのはピタゴラス的なものであり、そこに属人性はない。「それはあなたの考えでしょう」という逃げ口上とは決別できるのだ。

一方において真理はピタゴラス的な悟性的な存在ではなく、そこには理由があり、始まりがある。これがイデア概念の中核となっていく。

このあと、プラトンは「真・善・美」といった迷路に踏み込んでいく。

観念論の完成

さらに思惟的世界を感性的世界から分離してしまう。これにより存在論が認識論に吸収・解消される。

なおこの「国家」という書物は、アリストクラシーを説いていてきわめて評判が悪い。あたかもボルシェヴィズムの教科書のように扱われる。

紀元前387年、40歳のプラトンは、アテネに「アカデメイア」を設立。天文学、生物学、数学、政治学、哲学などを教えた。

50歳頃に、イデア論の集大成となる『国家』10巻が完成した。

紀元前367年には、17歳のアリストテレスが入門した。このときすでにプラトンは60歳だ。アリストテレスはプラトンが亡くなるまでの20年間、ここで学業生活を送った。

観念論と主体論の接合

後期にはイデアそのものではなく、「イデアに対する志向」を本質とすることにより、事物より事物への意識を対象とする主体論に傾いた。

これはソクラテスがピタゴラスの自然学を、「自然がそうである由縁が説明されていない」と批判したことへの対応であろう。

その一方で、シケリアの国政にもふたたび関わるようになった。

晩期には、宇宙が神によってイデアを鋳型として作られたという、客観的観念論に収斂していく。

とかく功成り名遂げ、齢を重ねると、体系化志向が強まるらしい。

これは70歳代の『ティマイオス』、『法律』(12巻)に展開されている。

当然、アリストテレスはこの傾向に激しく反発することになる。