第二次の第三者委員会の調査は進行中である。しかし去年にも一度内部調査は行われているのである。第二次の委員会が作られたということは、第一次の内部調査がいかにずさんであったかを証明している。
その内容は発表されていて、関電のホームページで閲覧可能である。

第1回調査委員会の報告の要旨
ほとんどが言い訳と合理化、居直りに終止している報告であるが、そのなかでも以下の核心的事実は消すことができない。
①20人が金品の譲渡を受けていた。
②工事等の案件に関連して要求されることはなかった。
③森山が金品を渡すのは自己顕示欲の表れと考えられていた。
④対応者は金品の出所について深く考えたことはなかった。
⑤当社幹部が森山氏に特別対応した事実は認められなかった。
⑥対応者は後日返却する意図で金品を保管していた。会社としての管理はなされていなかった。
⑦スーツ生地、商品券など一部については費消された。(たしかに全部でなければ一部だよな)
⑧渡された金品の一部は所得税の対象だと指摘され、当該分を納税している。
⑨森山氏には地元重視の観点から工事概算額を提供していた。しかし森山の依頼を受けて吉田開発に発注することはなかった。(強姦犯が「服は脱がせたが、体には触らなかった」と言うが如し)
⑩森山氏はかなりの頻度で金品を持ってきたので、情報提供の見返りとして金品を持ってきているという認識は持たなかった。
⑪返却を押し通すことは困難だったが、機会を見つけて順次返却しており、その大部分は返却済みである。
⑫文書の提供は、秘密文書の指定・解除を行う責任者が行っており、社内ルールに照らして必要な手続きは行われている。しかし工事概算額や発注先を開示したことは適切とは言えない。(これは不適切な行為ではなく、談合であり犯罪行為である)
⑬提供は吉田開発ではなく森山氏に対して行われたのであるが、それが伝達される可能性を考慮しなかったのは軽率であった。

関電と解同

結局問題の根っこはここに行き着くようだ。
60年代末から70年代にかけて、関西では解同の「糾弾」の嵐が吹きまくった。その典型が八鹿高校事件であり、あいつぐ自治体行政への介入だった。

警察は見て見ぬ振りをし、メディアは沈黙した。ときによっては加勢までした。地域で解同とまともに立ち向かうのは共産党だけだった。

なぜ民主主義の世の中でかくも野蛮なゴロツキ集団がのさばったのか、私たちはまだ十分な検証ができていない。

そのかさぶたが剥がれ、血が吹き出したのが今回の関電汚職なのだろうと思う。

おそらく、その腐れ縁は70年代前半、若狭湾に面して次々と原発が建設された時期に形成されたのであろう。

60年代には、運動弾圧のために暴力団が投入された。三池闘争がその典型である。暴力団はしばしば右翼を偽装した。政治団体であれば思想信条の自由の原則が適用される、それを見込んでのことである。

かくして、暴力団による襲撃は組合内の左右両派の激突と描き出され、労働者への国民の支持は失われていった。

流石にヤクザや暴力団を直接雇うのは気が引けたのだが、そこにおあつらえ向きのゴロツキが登場した。それが解同である。

彼らは「人権擁護」を掲げてこの世界に飛び込んできた。警察はそれを理由にして手を出さない。一種の治外法権的な雰囲気が形成された。

朝日ジャーナルや全共闘もそれを煽った。解同の無法と闘う共産党は反人権団体だと逆宣伝された。

それが結果として原発地元をズタズタにし、反原発派を排除し、原発建設への道を掃き清めたことになる。

関電がそれを指示し、資金を投入したという証拠はない。しかしそれが今回の事件で垣間見えたということではないのか。関電の後ろ暗さが解同の暴力行為を助長してきたのではないか。
そのような疑いが捨てきれない。



なお調査委員長を勤めた小林敬という人物は、大阪地検特捜部として「世紀のでっち上げ」を指揮した人物であり、その後罷免されたという経歴の持ち主だ。
秋霜烈日というのは検事としての厳しさを形容する言葉だが、この人は自分より目上の人にはめっきり優しくなってしまう二面性を持っているようだ。そういう人物を調査委員長に指名する関電の傲慢さが、150ボルトの電圧で感じられる。
ウィキペディアには次のような記載がある。
調査にあたって森山元助役から聞き取りをせず、一方当事者の言い分のみを記したことについて指摘されると、「そこまでは思いが至らなかった」と弁解した
これを読めば、第三者委員会の再立ち上げの理由もよく分かる。どっちにしても小林敬という人物、もはや先はないだろう。