主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
を参照しました。
この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。

2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。

実は二度目の訪問しまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録が載っています。
じつは全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

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             晩年のマンロー

1863年

6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に生まれる。マンロー家は名家で父親も外科医。

1879年 エジンバラ大学医学部に入学。

1882年 ダーウィンが死去。ダーウィンもエディンバラ大で医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗ったといわれる。

1883年 マンロー、考古学・人類学に興味を持ち、テームズ川で旧石器の発掘作業に加わる。

1887年 病気療養のため大学を休学。その後チュニジア・イタリアなどを旅行。

1888年 25歳で大学を卒業。出席日数の不足のため学位はとれず。

1888年 スコットランドを離れる。P&O汽船会社と契約し、インド航路の船医となる。

1889年 インド各地を旅行し発掘調査に関わる。父ロバート(56歳)が没するが、国に戻らず。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船「アンコナ号」(P&O汽船会社)の船医になる。

1890年 哲学に関するパンフレット「精神の物質的基本性質とさらなる進化」を横浜で刊行。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のためP&O汽船会社を辞職。オキシデンタル&オリエンタル汽船会社の「オセアニック号」で渡日。そのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。

8月 デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられる。

1893 年(明治26) 入院先の横浜ゼネラルホスピタルにそのまま勤務。第8代病院長となる(30歳)。その後軽井沢サナトリウムなどで働く。この間東大のベルツらと発掘仲間として親交を結んだと言う。

1894年 日清戦争に日本軍軍医として従軍を志願。外国国籍のため却下。

1895年(明治28) 横浜のドイツ人貿易商「レッツ商会」の令嬢アデレー・マリー・ジョセフィン・レッツ(19歳)と最初の結婚。令嬢は、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった。

1897年 一般病院外科担当医師として勤務。(34歳)

1898年 バチェラーの案内で北海道に旅する。このとき春採コタンでの熊祭りを映像に収める。
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マンローと長老イソンノアシ

1899年(明治32) 

長男ロバートが死去。翌年には次男イアンが誕生。

北海道旧土人保護法が制定される。実際には旧土人収奪法であった。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。出席した高畠とくは,マンローの日本史についての誤りを指摘する。トクは柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1903年 

横浜ゼネラル・ホスピタルを退職し個人開業。さらに発掘作業に打ち込む。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。膨大な費用を私費で賄う。

夏季 小樽市忍路の環状列石など道内各地を調査。この頃から高畠とくとの交際が始まる。

1904年

4月 二風谷を初めて訪問。その後忍路の環状列石を調査。

研究報告「日本の貨幣」(Coins of Japan)を英国で自費出版。

 
1905 年(明治38年)

1月 東京人類学会に自薦入会。

2月 日本に帰化。 「満郎」家を創立。国内法上、外国人同士が離婚するのは難しかったための「方便」とされる。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。次男イアンは妻が引き取る。

5月25日 マンローが高畠とくと結婚。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

初夏 早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器とみられるものを発見。

8 軽井沢で遺跡の発掘調査。

秋 横浜市の三ツ沢貝塚を発見し発掘調査。人骨を発掘(こども1体,大人4体)する。

12 長女アヤメ誕生(英名アイリス)


1906年

7月 川崎の南加瀬貝塚の発掘調査に参加。

英国の王立アジア協会会員となる。

1907年 

5月 「後石器時代の頭蓋骨」を発表。

1908年(明治41) 

2月 マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を出版。
権威付けのためにPh.dの肩書きが必要と痛感する。

5月 マンローは20年ぶりに帰国し、エディンバラ大で学位論文審査・口頭試問を受ける。

7月 エディンバラ大で学位論文審査に合格。

8月 ベルリン民族学博物館でトロイ遺跡出土物の計測に当たる。

9月 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。

1909年

4月 とく夫人と協議離婚。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。

エディンバラ大学より医学博士の学位を授与される。(46歳)

夏 釧路で貝塚の調査に当たる。

1910年

6月 戯曲「宗五郎」を自費出版。

1911年

母死亡。帰国せず。

1912年(明治45・大正1年)

夏 長野県の2つの遺跡で調査に従事。

1913年

ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

1914年(51歳) 

在日スイス人貿易商で富豪のファヴルブラントの娘アデル(28歳)と3度目の結婚。病院を3年間休職。新婚旅行を兼ねて沖縄・九州 を旅行、発掘調査に携わる。

1915年

6月 アデル夫人を同伴して北海道旅行。釧路市内で発掘調査に当たる。
マンローと二谷

12月 「考古学雑誌」に、「太古の大和民族と土蜘蛛」を発表。

日本アジア協会副会長に就任。

1916年 

4月 日本アジア協会で「アイヌの熊祭り」を講演。英字新聞に要旨が掲載される。

5月 夫人らを同伴して白老に滞在。倉庫を改造して無料診療とアイヌ研究に当たる。

(「1915年 北海道で冷害→飢饉。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。研究の比重は、考古学から生きた人間をあつかう人類学へと移る」という記載があったが、翌年の白老での行動を指しているのではないか?)

1917年 

3月 日本アジア協会で「日本ドンメル時代」を講演。日本の起源問題に触れる。これに対し日本側学者から反論。

4月 結婚3年後、自宅で結婚披露宴を行う。

夏 軽井沢に避暑。この年以降恒例となる。現地で診療も始め、旅館を改装してクリニックとする。
軽井沢での肩書きがどうもよくわからない。クリニックの院長なのかサナトリウムの院長なのか?

北海道庁に、「アイヌに関する諮問」への回答を提出。翌年、公表される。

1918年

2月 哲学書「存在の魂」(Soul in Being)を自費出版。

1919年

11月 ヨコハマ文芸・音楽協会で講演。演題は「真理は見いだし得るか」

1921年

ドイツ大使館侍医に就任。

7月 軽井沢でマンロー医院が開院。

1922年

アインシュタインが来日。マンローは帝国ホテルで会食する。 会見を機に神戸の新聞ジャパン・クロニクルに「知性の謎とアインシュタイン」(The Riddle of Mentality And Einstein)を掲載。アインシュタインに献呈する。


1923年(大正12)

6月 最初の夫人アデレーの父レッツが死去(79歳)

8月 アデール夫人の父ファブルブラントが死去(82歳)

9月1日 関東大震災。マンローは軽井沢で働いていて無事だったが、横浜の自宅は全焼し、これまでの資料、機材等は全滅。

9月2日 万難を乗り越え、横浜に到着。医療救済に全力を注ぐ。

12月 横浜ゼネラルホスピタルを再建。

1924年(大正13) 

妻アデルの実家ファブルブラント家が破産。これがもとでアデルは神経衰弱となる。マンローはアデル夫人をヒステリーと判断し、ウィーン大学のフロイドのもとに治療に赴かせる。

マンロー、横浜の仕事を整理し軽井沢に居を移す。軽井沢サナトリウムの院長に就任する(クリニックは閉鎖?)。
軽井沢サナトリウム

婦長の木村チヨは、日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。神戸の万国病院で婦長として働いたあとサナトリウムに赴任していた。
その後、二人は特別の関係に入り、チヨはマンローを長年無給で支えた。

1924年の出来事に関する記述は、「ニワトリが先か、卵が先か」論争になっており、前後関係が錯綜し、感情も混じえたものとなっています。

1927年 モンローの考古学研究動向が英科学雑誌「Nature 」に掲載される。

1928年 サナトリウム院長に加藤伝三郎が就任し、マンローは名誉院長に退く。

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価し支援を約す。

1929年 アデール夫人からの音信が絶える。

1930年 

5月 セリグマンの紹介で、ロックフェラー財団から助成金を獲得。

11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月の滞在中にイオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残す。この映像に対しバチェラーは、「残酷野蛮な行事を公開するのは心ないやり方」と批判。マンローは「一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival
熊送り

1931年 

7月 二風谷永住を決意。宅地を購入し自宅建築の準備を開始。

9月 二風谷を訪れ、翌年1月まで滞在。

1932 年(昭7) 

4月 長女アヤメがフランス留学。

6月 邸宅の外側が完成。内部の造作は遅れる。新築の邸宅ではなく借家の方に荷を解く。

9月 チヨと共に二風谷に移る。本籍を移す。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

12月16日 二風谷の仮住まいが火事に遭い多くの物を失う。資料・医療器具その他すべてを失う「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」。狭心症発作で倒れる。

1933年

1月 マンローの製作した「熊祭り」が英国人類学研究所で初上映。

4月 バチェラー、二風谷のマンローを訪問。

4月 バチェラー邸が完成。木村チヨ名義となる。

マンロー邸入り口
マンロー邸入口 この手前がマンロー坂
モンロー邸
湖側に向いた東側面
5月 マンロー、釧路考古学会顧問となる。チヨとともに北海道釧路市を訪れ講演を行う。翌日体調不良をきたし、そのまま軽井沢へと向かう。

7月 フランス留学中の長女アヤメ(アイリス)、現地で病死。

10月 軽井沢での療養を終え、ふたたび釧路に向かう。現地アイヌの調査を行う。

12月 自宅前庭にアイヌ家屋のオープンセットを設営。「カムイノミ」儀式を行い、記録映画に収める。

33年 日本アジア協会、ドイツ・アジア協会、軽井沢避暑団、英国の融資から火災救援金が贈られる。


1934年 

マンロー邸の敷地内に撮影用のチセが建てられる。

夏季 軽井沢で診療従事。活動資金を調達。

9月 「Nature」にマンローのアイヌ研究記事が掲載される。マンローはさらにユーカラをトーキーで撮影しようと企画したが果たせなかった。

1935年 
 
夏季 軽井沢で診療。

「人生の真実、存在の謎」を吉川弘文館より発行。

マンロー邸の前の国道の坂道が地元民によりマンロー坂と呼ばれるようになる。


道庁職員の谷万吉が二風谷のマンロー館を訪ねる。以後、死亡までの困難な数年間を親身に支える。

1936年

3月 久保寺逸彦らが二風谷で「熊祭り」映画を制作。マンローもこれに協力。

夏季 軽井沢で診療に従事。

12月 診療所の開設届を提出し、地域医師会に加入。道庁は診療所を認可する。

1937年(昭和12)

1月 二風谷近くのカンカン沢で石炭が発見される。アイヌの人たちと対応協議。

6月23日 アデールと協議離婚成立。アデルは3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算したという。

6月24日 ヘレン・ケラーが札幌を訪問。マンローは札幌に出向き面会。

6月30日 木村チヨと正式に結婚。(マンロー74歳、チヨ52歳)
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     マンローと千代

1938年

4月 英科学雑誌「Nature」にアイヌ文化研究記事が掲載される。

10月 不仲だったバチェラーが二風谷訪問。頬の腫瘍の切除を依頼する。これを機に両者は和解。

1939年

1月 「マンローはスパイだ」とのデマが流布。マンローは警察に調査依頼。二風谷を離れるよう強く進める。

2月 イタリア人人類学者のマライー二がバチェラーの紹介で二風谷を訪問。安全のため二風谷を離れるよう強く進める。

8月 軽井沢で診療。近衛文麿の援助のもとで日本古代史の論文出版にこぎつける。

10月 二風谷に戻り、永住をあらためて確認。(76歳)

1940年

岩波茂雄より研究助成金1千円を贈られる。

1941年

12月 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

1941年

5月 北大病院で前立腺ガンの診断。手術は不可能と宣告される。(78歳)

6月 軽井沢に戻り診療に従事。10月に二風谷に戻る。

12月 診療を断念、臥床するようになる。

12月 札幌で北大生の宮澤弘幸が治維法違反で逮捕される。宮沢と関係のあったマンローへの監視が強化される。

1942年(昭和17年)

4月はじめ 癌性腹膜炎にて腹水貯留。

4月11日 腸閉塞を併発し死去。79歳。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会う。

4月14日 自宅で告別式。聖公会の地元牧師が式を執り行う。

遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬される。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。
マンロー夫婦の旧墓
マンロー・チヨ夫妻の旧墓
軽井沢には妻のチヨの手で分骨の墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、『AINU Past and Present』として発表される。

1974年 長年にわたり博士を助けたチヨ夫人が死去。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。
マンロー夫婦の墓
現在の墓はちょっと…