ソ連戦死者数をめぐる議論について

国防省と科学アカデミーの報告に対しては「少なすぎる」という意見が圧倒的である。せりのように人数が増えていって、最大のものは4千数百万までせり上がっている。

率直にいってまともな議論が行われているようには思えない。

この手の「逆大本営発表」は、歴史ではよく経験する。侵略者がいかに極悪非道かを宣伝するために、犠牲者数は水増しされる。逆にゲリラ闘争の成果を発表するときには戦果は何倍にも水増しされ、「わが方の損害軽微」と付け加えられる。

アジビラの文章ならそれでいいが、あたかもそれが歴史的事実であるかのように教科書にまで書き込まれるようになると、「ちょっと待てよ」ということになる。

例えばグアテマラ、エルサル、チリなどでは、軍事独裁政権が終わってから和解委員会とか真実委員会などが作られ、実証的な検討が行われている。

ここでの経験から言うと、だいたい犠牲者数の数は十倍に膨らまされている。仕方ないのだ。そういうものなのだ。死んだ人間の数なんてそもそも数えるべきものじゃないのかもしれない。人の命の価値なんてものは計り知れないのだから。

どのくらいの人が死んだのかを示す、もっともマクロで信頼できる資料は国勢調査だ。住民登録や戸籍による追跡は、それが正確であればより精細だが、情勢激変時には確実性が低くなる。

例えば広島の被害を知ろうと思っても、戸籍や住民登録台帳は綺麗に燃えてしまっている。原発で避難した福島の町だって、紙の上だけの町民はいずれ音信不明の幽霊人口になると思う。

ソ連の場合1941年6月の国勢調査と1946年1月の国勢調査が比較できる。それが戦死者2600万人の最大の根拠だ。

ただし1946年1月の国勢調査の信頼度が問題となる。おそらくかなり多数の人々が被占領地域から非占領地域に疎開していたと思う。それがどの程度46年初頭の段階で捕捉できていただろうかという問題だ。

つまり、常識的に見て、戦死者数は2600万人を下回ることはあっても上回ることはないはずだ。4千万人とか言われると、それだけで「その調査は信頼出来ないな」ということになる。

歴史的経験から見て、人間は従容として死を待つということはない。たいていは逃げる。アフガンでもイラクでもシリアでも必ず人々は逃げる。

そうやって逃げた人のうちのどの位が転居先で転居届を出して住民登録して、国勢調査を受けたかという歩留まりがそこには反映されると思う。その分は“死者”の数から割り引かなくてはならない。

私の推測としては、消えた人口の多くはどこかで生きていたのではないかと思う。半分としても十分多い。

南京大虐殺もそうだ。私は虐殺の存在自体は否定しないが、犠牲者の数は60万ではなく6万前後かと見ている。偕行社の編集者の言う如く、それでも立派な大虐殺だ。

切ったり刺したり、機銃掃射したりして殺せる人間の数には限りがあると思っている。とくに正規軍組織は爾後占領下の統治と治安の維持に当たらなければならないのだから、組織としての正統性が要求される。さすがにジェノサイド的行動までは出来ないと思う。(直接痛みを感じない砲撃や爆撃・雷撃は別だが)

ルワンダやカンボジアの大虐殺には、狂気のパラミリタリー組織や大衆参加という別のメカニズムが働いていると思う。