幕末期 国学や水戸学の一部や吉田松陰ら、「日本書紀」の記述を牽強付会。日本が朝鮮を支配していたと主張。これを論拠として朝鮮進出を唱える。背景に朝鮮侵略で、欧米からの圧迫の代償を得ようとしたと言われる。

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は征韓論に基づく日朝提携論を唱え、勝海舟に献策。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想した。(木戸は後に反征韓論に転換)

1864年 国王の後見となった大院君は、清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始。

1866年

2月 大院君政権が「丙寅教獄」と呼ばれるキリスト教弾圧。フランス人宣教師9人、朝鮮人教徒8000人を殺害。

7月 米国の武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江へ侵入。座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、全員殺害される。

10月 フランス人宣教師殺害に対し報復攻撃。フランス極東艦隊が1ヶ月に渡り江華島を占領、朝鮮軍と戦う。

1867年

1月 八戸事件発生。「八戸順叔」なる香港在住の日本人が、清国広州の新聞に「日本(幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしている」との記事を寄稿。清・朝鮮の疑念を招く。

3月 徳川慶喜がフランス公使ロッシュに、フランス・朝鮮間の調停を依頼する。

7月 老中板倉勝静から対馬藩へ八戸記事を公式に否定するよう命じる。

11月 徳川慶喜、大政を奉還。

1868年

1月(旧暦で慶応3年12月) 王政復古の大号令。錦旗をいただく明治政府が成立。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進展。

1月 新政府は対馬藩を介して発足を通告し、国交確立を望む。朝鮮側は国書の受理を拒否。

これまで外交権を代表する徳川将軍と朝鮮国王は彼比対等の礼をとっていたが、国書は清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含んでいた。

4月 江戸開城。

10月 慶応4年から明治元年へと改元。

11月 新政府、対馬藩を通じて国書を送り、王政復古したことを知らせる。この中で新しい印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたことから、朝鮮政府は受け取りを拒否。

12月 岩倉具視、木戸孝允らが国書受理拒否の事態を受け朝鮮侵略を画策。戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。

1870年(明治3年)

2月 明治政府は特使佐田白茅を釜山に派遣。国交を求めるが拒否される。

4月 佐田白茅は、朝鮮の対応に憤慨し征韓を建白する。「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」とし、参議の木戸孝允が訴えに共鳴。

7月 薩摩藩士の横山安武が、征韓論の非を訴え諫死(切腹)。

12月 岩倉視察団が出発。岩倉・大久保・木戸の三巨頭と伊藤博文らが1年10か月にわたる外遊を行う。「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と批判される。

1872年(明治5年)

1月(明治5年) 対馬旧藩主を朝鮮に派遣し国交を要請。朝鮮はこれを拒否。

5月 対朝鮮交渉は外務省の専管となり、対馬藩の関係は解消される。

8月 外務大丞花房義質が釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に赴き折衝するが不調に終わる。

1872年 大院君の排外鎖国政策がさらに強化される。これに伴い排日の風も強まる。

1873年(明治6年)

伊達宗城が清に派遣され、日清対等の日清修好条規の締結に成功する。朝鮮は再度の国交交渉呼びかけも拒否。

5月 朝鮮が、釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に日本を侮辱した書を掲示。倭館への食糧供給を拒絶する。

6月 閣議で対朝鮮外交問題を議論。板垣退助は居留民を保護するため兵を派遣するよう主張。西郷隆盛は派兵に反対し、まず大使を派遣し直接交渉するよう主張(遣韓論)。

6月 太政大臣三条実美は、閣議を受け、朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を作成。西郷は自身が大使として赴くと主張し即時出兵を抑える。これを板垣・大木・後藤・江藤が賛同。

6月 副使大久保利通、が帰国。そのまま閉居となる。

7月 木戸孝允が帰国。原因不明の脳発作のような持病が出現。そのまま閉居となる。

7月 中国出張から戻った外務卿の副島種臣、遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望する。

8月17日 閣議で西郷の遣使を決定。事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとなる。

8月 三条は明治天皇を巻き込んで決行を抑える。三条の意を受けた伊藤博文がフィクサーとなる。

9月23日 岩倉具視,大久保利通らが欧米視察から急遽帰国。西郷派遣案潰しに奔走し始める。

「10月政変」

10月12日 大久保利通が参議に復帰。副島外務卿も参議兼任となる。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難とし、西郷と対決する意志を固める。

10月14日 参議会議。岩倉と大久保は、内政改革・国力充実を急務として出兵・遣使に反対。西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となる。大隈,大木は大久保に同調。
三条は「軍備が整っていない」ことを口実にし、征韓論を受け入れつつ、西郷の派遣を遅らせようと図る。これには岩倉・大久保・木戸が反発し、辞職の構えを見せる。

10月18日 三条は病に倒れる。副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とする。

10月20日 明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じる。大久保利通の差し金によるとされる。

10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、朝鮮遣使を発令するよう談判。岩倉は自らが太政大臣摂行となった以上、自分の意見を奏上するとし、事実上遣使を拒否。

10月23日 西郷、参議を辞任し東京を離れる。

10月24日 岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、大使派遣の中止案が裁可される。西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を解かれる。大久保・木戸らの辞表も却下される。

10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理される。以降岩倉・大久保政権となる。大久保は内務省への全権集中を図る。

10月25日 西郷らの辞職を受け、の薩摩系官僚・軍人の約600人もが明治政府に辞職を申し出る。

1874年(明治7年)

1月 岩倉が赤坂喰違坂で旧土佐藩士暴徒に襲われる。軽傷を負うが命に別状なし。

1月 板垣、江藤、副島、後藤らが愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出する。

5月 宮古島島民の遭難を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵。この後大久保は右旋回。木戸孝允は出兵に抗議し参議を辞任。木戸は当初征韓論者であったが、外遊後は反征韓論に変わった。

1875年(明治8年) 江華島事件。李氏朝鮮に対して軍艦を派遣。

1875年 日朝修好条規(江華条約)を締結する。朝鮮侵略の突破口。

1876年(明治9年)10月 熊本県で神風連の乱、3日後に「秋月党」の乱が発生。




征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

最大の類似点は、朝鮮政府側に落度がないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。