藤原仲麻呂 一代記

706年 生まれる。父は藤原不比等の長男で、藤原南家の祖である藤原武智麻呂(むちまろ)。

707年 文武天皇が没し阿閇皇女が即位。元明天皇を名乗る。

708年 越後国に出羽郡を建つ。新羅との朝貢関係が確定。兵力の奥羽地方への進出が本格化する。

712年 太安麻呂『古事記』を編纂。引き続き諸国の『風土記』編集が始まる。

720年 隼人、大隅国守殺害。陸奥蝦夷が按察使を殺害。

720年 「日本書紀」が完成。

724年 元正譲位、首皇子即位。聖武を名乗る。

725年 内舎人(うどねり)として仕官。

729年
2月 長屋王の変。左大臣長屋王が謀反を計画したとされ自殺。光明子立后をめざす藤原四兄弟がしくんだ事件と言われる。

8月 藤原光明子、臣籍でありながら皇后となる。旧長屋王邸が光明の宮になる。天平と改元される。

734年(28歳) 従五位下に叙され、政治キャリアを開始。

735年 藤原四兄弟はこれまでの軍縮路線を排し、新羅に軍事的圧力をかける外交方針に転換。

737年
9月 天然痘の流行。光明皇后の後ろ盾として政権を担っていた武智麻呂が病死。藤原四兄弟が相次いで病死し、藤原南家の勢力は大きく後退する。

737年 藤原南家に代わり、聖武天皇の意向を受けた橘諸兄が政権を握る。唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される。この年の租・負稲を免ず。

738年
2月 阿倍内親王が立太子する。橘奈良麻呂は次の皇位継承の見通しを立てるため、別の天皇を求める動きを示す。

738年 藤原式家の藤原広嗣、大宰府に任命される。対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざける狙いとされる。

739年 橘諸兄、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を復活。諸国の兵士徴集を停止、郡司数を減らす。

740年
9月 新羅に派遣した使節が追い返される。大宰府の藤原広嗣は挙兵を呼びかける。

9月 聖武天皇は大野東人を大将軍とし、1万7,000人を動員する。広嗣は九州の兵5,000人を率いて応戦。

11月 潜伏していた藤原広嗣の一族が捕らえられ処刑される。

740年 仲麻呂、「藤原広嗣の乱」の後、政界へ進出する。

744年 第二皇子安積親王が難波宮に行啓。途上、脚気になり急死。藤原仲麻呂に毒殺されたという説がある。

745年 聖武天皇、流転の末、都を平城京に戻す。大宰府も復置される。

746年 仲麻呂は従三位となり、官吏の選叙と考課を握る式部卿に就任。この後、仲麻呂は人事異動を行うことで自派勢力を拡大。左大臣橘諸兄の勢力をしのぐようになる。

747年 大養徳国を大倭国に改称。

749年 聖武天皇が譲位。仲麻呂の従兄弟に当たる孝謙天皇が即位する(光明皇后は叔母に当たる)。仲麻呂は紫微中台(皇后宮)の長官となり、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立される。

752年 大仏開眼供養会。会の後、孝謙天皇は仲麻呂の私邸を暫時御在所とする。

753年 遣唐使の藤原清河、唐朝で新羅と席次を争う。

755年 橘諸兄が朝廷を誹謗したとの密告。諸兄は左大臣を辞す。

756年
5月 長年、諸兄を引き立ててきた聖武天皇が崩御。

756年 大宝律令にかわって養老律令が施行される。唐制の徹底した模倣を図る。開基勝宝・太平元宝・万年通宝を新鋳。

757年
3月 孝謙天皇、聖武上皇の指名した皇太子の道祖王を廃位に追い込み、舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とする。

5月 橘諸兄の子の奈良麻呂、天武天皇の孫を擁立して反乱を企てるが発覚。443人が処罰される大事件となる。

758年
2月 藤原仲麻呂の意向により問民苦使(もみくし)制度が発足。「民の苦しみを問う」ことを理由とし、動揺する地方情勢の鎮静化を図る。

8月 孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位。仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられ、仲麻呂は押勝の名を賜与される。

759年 仲麻呂、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、新羅征伐の準備をはじめる。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画を立案。諸国に常平倉を設置する。

11月 保良宮(ほらのみや)の造営が決まる。平城京の陪都として大津石山に造営を企図。唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづく構想。新羅出兵に伴い軍事的な備えとしての遷居と言われる。

760年
1月 中麻呂、人臣として史上初の太師(太政大臣)に昇格。

6月 光明皇太后が崩御。後楯を失った仲麻呂にとって打撃となる。

761年
10月 保良宮が完成し、孝謙上皇らが移御する。平城京に対して北京とも呼ばれる。

762年
初め 孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになる。

5月 淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住む。孝謙上皇は淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明。

6月 「国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言。道鏡への寵愛を深め、淳仁と押勝に対立するようになる。

763年 孝謙上皇、道鏡を少僧都とする。孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立が深まる。

764年
9月初め 仲麻呂、都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと図る。

9月11日 孝謙上皇、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収。仲麻呂は鈴印の回収を図るが、孝謙方に先手を打たれ敗退。

9月11日 仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、地盤となっていた近江国の国衙を目指す。吉備真備の率いる討伐隊が追い、越前方面を制圧。

9月15日 愛発関の突破をはかる中麻呂軍と守備隊が激突。中麻呂軍は敗れ、近江国高島郡三尾まで後退。

9月18日 三尾の城が落ちる。仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが、勝野の鬼江で捕らえられて斬首される。(59歳)

10月9日 淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。

766年 道鏡が法王となる。

770年 称徳天皇が没。道鏡は下野国に左遷される。

wikiの仲麻呂の記事を中心に、時代背景を書き込んだ。

事実の重み付けはなかなかできないが、今の時代と重ね合わすと、まさにミニ覇権主義の復活と思われる事態が進行していたようだ。

対外政策としては天智政治の復活と言える。つまり中国とは戦わず、新羅に対して臣従を求めるという態度だ。

ただし天智政府は、それを半ば中国から押し付けられた形で選択したのだが、仲麻呂政府はそういう理由とは思えない。むしろナイーブな中国賛美と、朝鮮を統一しすでに日本を上回るような強国となった新羅に対する由緒のない優越感、さらに半島への再侵攻さえも夢見るような攻撃性が見て取れる。

おそらく天武政権以来の権力の集中が強固となり、東北地方への進出がかなりの力の蓄積となったことが、自信になっているのだろう。しかし、8世紀なかばの東アジアの力関係の中で、中国との力関係も不確実な状況の中で、これはあまりにも安易な判断だ。

しかし壬申の乱を包んだ、あの痛いほどの緊迫感はそこにはない。天武の成し遂げたあの大胆な路線転換、すなわちとうと対決してでも日本の独立は守る。そのために仇敵新羅との連盟もいとわない、という決意とは似て非なる夜郎自大である。

それが大方の不信を買った。だからこそ思いもよらぬみじめな自滅に追い込まれたのではないだろうか。