ヘーゲル 法の哲学 抜書 1

序文


…自然については、哲学はそれをあるがままに認識しなければならない。賢者の石は、自然そのものの中のどこかに隠されている。
それはすなわち、自然がそれ自身において“理性的”であるということである。
だから、知は自然のうちに存在するこの現実的な理性を捉えなければならない。

…哲学とは、理性的なものの根本を見分けることである。そしてそこにある現在的で現実的なものを把握することである。そこに彼岸的なものを打ち立てることではない。

…これに対して倫理的世界たる国家・社会は、理性を内在せず、一つの恣意の世界として偶然に委ねられており、神に見捨てられている。

…法の認識が自然の認識と違うのは、法に対しては考察・批判の精神が勃興してくることだ。もろもろの異なる法律があるということが、それらの法律は絶対的ではないということを示す。

…人間は外的な権威の必然性と力に屈することがありうるが、けっしてそれは自然の必然性に服するのと同じではない。人間は、該当する法が真実かそうでないかを検証する手段を、自分のうちに見出す。

…むかしは既存の法律への尊敬と畏怖が存在していた。しかし今はむきだしの思想が一切の法の頂点に立っている。もろもろの対抗理論がそれに対置され、おのれを“正しくて必然的”なものと見せようとする。

…浅薄な連中は、「学」を思想と概念の展開により規定する代わりに感覚的な印象と偶然の思いつきの上に立てようとする。彼らは国家という建築物を分析するのでなく、「心情、友情、感激」という粥みたいなものに一緒に溶かしてしまおうとする。

…本稿では、国家を哲学として扱う。ということは国家をそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握しようとする。そして、国家という倫理的宇宙がいかに認識されるべきかを考察する。


緒論

第1章

…哲学の対象は理念であって「概念」ではない。いわゆる「概念」は、抽象的な悟性の規定でしかない。
哲学は「概念」という思い込みが、一面的で非真理であることを明らかにする。真の概念は現実性を持ち、哲学に対して現実性を付与する。

…哲学は円環をなしている。最初の哲学は直接的で無媒介である。それはともかく開始されなければならない。それはまだ証明されておらず、成果となっていない。

…法は実定的である。なぜなら法は一つの国家に妥当するという形式を持つからだ。実定的というのは有限で人為的であり、要するに歴史的なものだということである。

…自然法は法と対立し抗争していると考えるのは誤りである。法は自然法の展開されたものである。その展開は一つの国民と一つの時代の性格に依存して行われる。

第4章

…法の地盤は精神的なものである。その開始点は意志である。意志は自由なもの(誰かにとって)であるから、(誰かの)自由が法の実体をなす。(誰かというのは私の挿入)

…法の体系は「実現された自由」の王国である。だから、法は意志という精神が生み出した精神の世界であり、第二の自然と呼ばれる世界である。

…精神はまず第一に知性である。知性は感情から表象を経て思惟へと進んでいく。その際に通過する知性の諸段階は、精神がおのれを意志として生み出す道すじである。実践的な精神にとって、意志は知性の直後に続く真理である。

追加(第4章への)

本筋とは関係なく意志に関係する哲学的叙述が長々と続く。しかしとても示唆に富んでいる。

…自由とは意志の根本規定である。それは重さが物体の根本規定であるのと同様である。
意志は自由なしには空語であり、自由もまた意志として主体として初めて現実的なものとなる。(同様に意志も自由も、誰の意志か、誰にとっての自由かを問わなければならない)

…思惟と意志との区別は理論的態度と実践的態度の区別にほかならない。意志は思惟の特殊なあり方である。意志は思惟が自己を現存在のうちに投企する思惟である。そして自己に意味を付与しようとする衝動としての思惟である。
すなわち理論的思惟にとどまらない、能動的な実践的な思惟なのである。

…表象化は一種の普遍化である。普遍化は思惟なしにありえない。自我は普遍的であり、そこでは個別性や特殊性は無視されている。自我は空虚で無内容である。しかしこの空虚さにおいて活動的である。

以下略(いつもながらヘーゲルの口下手と多弁には辟易とする)


第5章

…意志は純粋な無規定として、すなわち衝動として現れることもある。自由が情熱にまで高められ、内容を持たないときは否定的・破壊的な意志となる。(今で言う原理主義)

追加(第5章への)

…このように「意志」を規定すると、人間の究極的自由が、極めて抽象的にも語りうるということが明らかになる。たとえば人間は、おのれの命を放棄する自由も持っているし行使することもできる。

…この否定的な自由は悟性の自由であり一面的である。悟性には欠陥がある。ある一面的な規定を唯一の至高の規定にまで高めてしまうことである。

…この否定的な自由は、政治的あるいは宗教的活動の狂信者にもっとも具体的に現象する。例えばフランス革命の恐怖政治時代がそうだ。
狂信は一つの抽象的なものを欲する。それは無規定であるがゆえに反区別主義である。どんな分裂も特殊も許さない。


第11章

もろもろの衝動、欲求は即自的に自由な意志である。しかしそれは直接的、自然的な意志である。

衝動、欲求は動物にもあるが、動物は何ら意志を持たない。しかし人間は衝動を自分のものとして、自我のうちに定立している。

したがって、それは意志の理性的本能から来るのだが、まだ理性的な形式の下に置かれているのではない。

第12章

意志は決定という行為によって個別化する。すなわち現実的な意志となる。思惟する理性は意志として意を決し、有限となる。
人間はただ決定することによってのみ現実の中に踏み入る。

何一つ決定しない意志は現実的な意志ではない。それは優柔不断な意志であり、死んだ意志である。

知性はその対象が普遍的であるだけでなく、知的活動自身が普遍的な活動である。

しかし意志においては普遍的な意志が、同時に個別的なものとなる。意志そのものは普遍的だが、“私の意志”として個別的である。

第15章

意志の自由は恣意であるとも言える。世間では、自由とは何でもやりたいことができることだと言われている。しかしそう言う恣意こそ、彼が動物的必然から自由でないことの証明なのである。