弥生時代後期の青銅祭器の分布から分かること

引き続き「野洲川下流域の弥生遺跡」のページからの紹介である。

弥生後期の図に移ろう。
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弥生後期も祭器分布の基本構図は変わらない。北部九州の銅矛対近畿東海の銅鐸である。

これに対し出雲から吉備にかけての模様が著しく変化する。

第一に、銅剣文化が消失していることである。出雲の中細形銅剣も吉備の平形銅剣も出土しなくなる。

第二に、銅剣を捨てた銅剣人が、墳墓という独自の文化を作り始めたということである。
中細形銅剣を作った出雲の銅剣人は、四隅突出型墳丘墓を作り始めた。平形銅剣を作った吉備の銅剣人は双方中円墳を作り始めた。

第三に、銅剣人とかぶっていた銅鐸人は姿を消し、東方に後退していることである。まさに妻木晩田遺跡であり、青谷上寺地遺跡である。
この地域においては銅剣人が銅鐸人と争い、それを支配下に収めたのであろう。

第四に、四隅突出型墳丘墓は高句麗など北方由来の墓型であり、これが吉備に入って土盛りの双方中円墳に発展したと見られることである。
これは吉備地方で大規模土木・灌がい工事が始まり余剰土砂が大量に算出されるようになったことを示す。そしてこの双方中円墳が前方後円墳へ発展していくのではないだろうか。

私は3世紀中頃に巻向に出現した天孫族は、この吉備の分家筋の銅剣人ではないかと推測する。

本家筋の銅剣人は日本海岸に東進し越前・越後へと達する。さらに一部は若狭から近江・美濃・尾張へと進出し、一部は信州から上毛へと進出していく。

なお、銅鐸については弥生中期に一旦消滅した後、後期の初めに大型の「見る銅鐸」として復活したという説があり、もしそうなら、中期の銅鐸と後期の銅鐸は同じ流れの存在とは言えなくなる。この問題は今回は保留する。

銅矛についても弥生時代後期の北部九州の信仰のシンボルと言ってよいかは疑問が残る。

少なくとも北部九州においては弥生後期にはすでに完全な鉄器の時代に入っている。だから強さのシンボルであるならそれは鉄剣でなくてはならなかったのではないだろうか。

いずれにしても、基礎知識の不足を痛感する。すこし銅鐸、銅矛について勉強した上でまた発言していきたい。

弥生時代中期の青銅祭器の分布から分かること