野洲川下流域の弥生遺跡 というページに大変面白い図があったので、紹介させてもらう。


この図が弥生時代中期の青銅祭器の分布である。

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弥生時代中期の実年代については、

中期前半の須玖Ⅰ式が前325~前230年,中期後半の須玖Ⅱ式古が前230~前45年という年代幅をもつ

ということなので、BC300~BC50くらい、と想定しておく。特にBC102年の衛氏朝鮮の崩壊と漢の占領、楽浪郡の設置という大事件を間に挟んでいることに注目しなければならない。
とにかくBC50くらいには天孫族の支配がすでに始まり、「倭国、分かれて百余国」の状態に至っていたということだ。

1.3つの青銅文化圏

この図では、興味あることに日本が3つの青銅文化圏に分かれている。

すなわち九州 を中心とする銅矛圏、近畿を中心とする銅鐸圏、そしてその中間の境界部に挿入された銅剣圏だ。それは弥生中期の日本に銅矛人、銅剣人、銅鐸人が併存したことを意味する。

これまで和辻哲郎以降、銅剣vs銅鐸と考えてきたのとはだいぶ話が変わってくる。“重複部”をたんなる境界部として考えるのか、独自の銅剣圏として考えるのかが、問われることになる。


2.銅矛文化は銅鐸文化を押しやる形で侵入した(はずだ)

世間には九州からも銅鐸が見つかったことで、2つの文化圏を分けるのは無意味だと主張する人がいる。私はそれこそナンセンスだと思う。

銅鐸文明が九州にあるのは当然だ。そもそもそれは朝鮮から九州 を経由して西日本へと拡散していたのだから、むしろ九州 にないと困るくらいだ。

むしろ問題は逆に、どうして九州に銅鐸がなくなってしまったのかということだ。それは銅矛を祭器とする人々が後から入ってきて、彼らが銅鐸文化を排除したからだと考えるしかない。

だからこの分布図から、私たちは時間経過を勘定に入れて考えることになる。つまり銅矛人が弥生中期の初めに渡来して、銅鐸文化はそのために東にシフトせざるを得なくなったということだ。

注意すべきは、それが、銅鐸人(長江人)そのものが排斥されたということではなく、銅矛人が支配者になって万世一系思想を流布し、銅鐸文化を排斥したことを意味するということだ。

それは朝鮮半島南部で、高天原の天孫族がイザナミの豊葦原中国・大八洲を制圧し、垂直型信仰に習合したのと同じ方式だ。


3.重複部であるとともに独自の銅剣圏

それともう一つ、2つの文化圏の中間に出現した銅剣文化は、どちらの文化とも異なる「第3の文化」の可能性がある。

この分布図に従うと、島根-高知線で銅矛圏と銅鐸圏はかなりクリアーに分かれている。これは銅矛が進出すればその分銅鐸が退くという関係にあったことを示している。そして大阪湾に銅矛圏が飛び地的に進出している。

それはそれで良いのだが、そういう関係の中に突如、銅剣文化が刺さりこんだ形になっている。これが紀元前後の日本の特徴なのである。

この銅剣地帯は2つに分かれている。出雲を中心とする中細形銅剣と、瀬戸内中部の南北両岸の平形銅剣地帯である。平形銅剣は中細形の発展・派生型と思われる。

この南北2つの銅剣地帯は、とりわけ銅矛地帯を両断する形になっている。

4.銅剣と銅矛はまったく異なる

いろいろあるが、強調しておきたいことは、「銅剣と銅矛とは違うものだ」ということだ。先日国立博物館に行ってみてきたのだが、研究者は銅剣と銅矛を同一視していることがわかった。しかし銅矛のパッションはまったく違う。これは武器ではない。これでは絶対人は殺せない。

まずは一度、銅矛の思想というものを受け止めないとこの話は進まない気がする。



これが弥生時代中期に起きたことなのだ。この時代には大変なことが起きたのだ。

弥生後期の分布図とそれについての感想は、長くなったので新たに稿を起こすことにする。