長崎大学の高倉泰夫さんという人が、「資本蓄積と信用制度あるいは金融システム」という文章を書いている。宇野派の人らしい。

ちょっととりとめのない文章だが、問題提起としてはわりと面白い。

これまでの定説では

重商主義-自由主義-帝国主義という資本制経済の発展段階が想定されていた。そしてで帝国主義の基礎を形づくる金融資本についてドイツを「典型的なもの」としていた。

最近では、ドイツ・イギリス・アメリカでの生産諸力の発展と金融資本のあり方の違いとの関連を重視するようになっている。

それはとくに、1980年代から顕在化してきた「金融主導型蓄積体制」の諸特徴の理論化へ寄与するという問題意識と関連している。

ということで、すでに実質的に放棄しているレーニンの「帝国主義論」をしっかり総括しようというものだ。

たしかに、80年代に「全般的危機論」の破産を宣告したとき、我々はその理論的基礎である「帝国主義論」や、さらにその基礎であるヒルファーディングの「金融資本論」やホブソンを無意識の内に放棄したのであるが、それは意識的な作業ではなかった。

だから、資本主義が独占資本主義になり、その担い手が銀行を頂点とするコンツェルンであるという「テーゼ」の上に、それと国家が癒着した「国家独占資本主義」というカテゴリーが乗っかり、それが資本主義の最後の段階だ、革命の日は近いというふうな指導が一般的だった。そのような図式的理解はなし崩し的にチャラになったが、それが誤りだったとか不十分だとか、不適切だったとかして精算された記憶はない。

今日では、コンツェルン的な発展形態は、むしろ遅れて発達した国が、絶対主義的国家のもとでキャッチアップしようとするときの特殊な形態とする見方が一般的だろう。それは第一次大戦前のドイツで典型的であったが、やがて日本に受け継がれ、今では韓国が典型となっている。

国家独占資本主義という概念は、今ではこのような独占資本主義の特殊な形態と結びつけて考えらる。イギリスでの独占資本主義はそのような形態はとらなかった。国家独占資本主義は、独占資本主義のさらなる発展形態ではなく、その奇形的発展形態といっても間違いないだろう。

学生の頃「帝国主義論」の学習会をやると、独占資本の形態としてカルテル、トラスト、コンツェルンという3つがあげられた。それはいいのだが、その3つがまったく相互の相違や必然性や方向性が示されることなく並置されるのには著しく違和感を覚えた記憶がある。独占の結合の深度としては明らかにカルテル→トラスト→コンツェルンでなくてはならない。しかしそのような矢印はなかった。

レーニンという人はかなり強引な人だが、その彼にもさすがに矢印をつける度胸はなかったのであろう。もしつければ、それは英米両国が独占資本主義の発展において遅れており、ドイツこそが世界の先端を走っているのだというドグマに至ることになるからだ。

マルクスは「信用制度は社会主義への一歩前進だ」としている。それは間違いない。ただそれと金融資本・独占資本・国家独占資本という概念のあいだには埋めるべき隔たりが存在している。