戦死者ランキングを一口解説しておく。

ルジェフの戦い: モスクワ近くまで進行したドイツ軍に対してソ連軍が行った反撃。正式には第二次ルジェフ会戦と呼ばれる。ソ連軍はドイツ軍戦線を突破できず大敗北を喫した。ソ連は長きにわたってこの会戦の存在そのものを否定してきた。

ソンムの戦い: 連合国側(英・仏)のドイツ軍に対する大攻勢。フランス北部のソンム河畔で行われた。戦車や航空機も投入された。 いずれの側にも決定的な成果がないままにおわる。

スターリングラードの戦い: 史上最大の市街戦といわれる。60万を数えたスターリングラードの住民はわずか9796名に激減。ドイツ陸軍総兵力の4分の1にあたる150万人が戦闘不能となる。

上海の戦い: 第二次上海事変を指す。ドイツ軍の指導を受けた蒋介石軍が上海租界を砲撃。日本軍は各国の停戦案を無視し大軍を投入。その後の戦闘で蒋介石軍主力が壊滅するが蒋介石はさらに抵抗を継続し日中戦争につながる。

バルジの戦い: バルジは地名ではなく英語で「出っ張り」の意。アルデンヌ地方で闘われたためアルデンヌ攻勢とも呼ばれる。多くの戦記を見ても、連合軍側がどこで多大の犠牲を出したのかは良くわからない。

ワーテルローの戦い: 12万の兵力を率いて出陣したナポレオンがベルギーのブラッセル近郊で英(11万)・普(12万)連合軍と闘った。ナポレオン軍は英軍と正面戦を行う間にプロシア軍に側面を衝かれ壊滅した。

ノモンハンの戦い: 関東軍が、圧倒的なソ連軍に無謀な地上攻撃を繰り返し、そのたびに殲滅された。ただしソ連崩壊後、ソ連軍の損害も2万人にのぼっていたことが明らかになった。

ケーニヒグレーツの戦い: ボヘミア中部でプロイセン軍(32万)がオーストリア軍(40万)を撃破した。ウィキペディアでは、プロイセン軍の死傷者9千人、オーストリア軍の死傷者約2万4千人、捕虜2万人となっている。

ビックスバーグの戦い ゲティスバーグは有名だが、その前後40日にわたるミシシッピ河畔の砦の包囲戦。ビックスバーグはデービス南部大統領出身地。