伽耶  または加羅、または加羅諸国

ウィキペディアの記載はわかりにくい。

広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
洛東江流域を中心として散在していた小国家群。

金石文である広開土王碑文と中国文献で確実な事実を表すと下記の如くなる。

414年 広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初

438年 『宋書』のこの年の条に 「弁辰」が消えて「任那」が登場。

451年 『宋書』のこの年の条に倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けられたとの記述。

478年 宋朝が倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授ける。

537年 中国梁国の史書「南齊書」では、「加羅國、三韓種也」とされる。

629年 『梁書』が成立。「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。

660年 『翰苑』が成立。新羅条に「任那」が登場。その註に伝聞として、「加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。

801年 『通典』が成立。新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。

どういう地理関係にあったかは別として、とにかく同時に併存した別個の国だったことは間違いない。

問題は、これだけ存在が確実である「加羅」が日本の文献にほとんど登場しないことである。

加羅と三韓

あまり深読みしてても仕方がないが、「加羅國、三韓種也」とあるのは任那と加羅・秦韓・慕韓とは、すこし国としての扱いが違うのかも知れない。

つまり、任那は百済や新羅と同じ扱いで、加羅は半島南岸にわずかに残った旧三韓の名残りと見ることもできる。

少なくとも中国はそうみていた。とにかくこの基本線を踏み外してはいけない。