出雲の国譲りをもう少し突っ込む

目下のところ私の妄想に過ぎないが、イザナギ・伊邪那美の作った大八洲と豊葦原中国はいずれも朝鮮半島南岸地域だと思う。
そこには九州から渡った晩期縄文人が住み着いていた。そこに長江下流域で水稲を栽培していた人々(YハプロO1b)が山東半島から渡ってきた。
彼らは縄文ネットワークを通じて九州 に渡りコロニーを形成し始めた。

衛氏朝鮮残党(遼河人)の南進

紀元前200年ころに漢が進出し楽浪郡を形成した。衛氏朝鮮は滅び残党は南に向かった。
彼ら天孫族は「高天原」により、豊葦原中国を攻略した。彼らが百済や新羅の祖先となる。
やがてスサノオ派が天孫系から分裂した。彼らは支配権争いに敗れ出雲へと逃亡した。
アマテラス派は追討軍を派遣し、日向に上陸した後、スサノオ派の拠点宗像を奪い、さらに東に向かった。

出雲族の大和征服

ここでスサノオ派は出雲を明け渡すのだが、アマテラス派の支配下に入るのではなく、さらに東に向かうことになる。
つまり神武東遷の前に出雲天孫系の「東遷」が先行したのである。
こういう二段跳び、三段跳びができたのは彼らが稲作民ではなく狩猟民であったからだろう。いわゆる「騎馬民族」である。
一方、稲作を営む長江人系には天孫系の支配を甘んじて受けるという選択肢しかなかった。
彼らの信仰は放棄され、そのシンボルであった銅鐸は投棄された。
絶対年代で言えば、国譲りと移動の開始が3世紀前半、すなわち卑弥呼の時代である。そして東征の終了、すなわち大和の制圧が3世紀の後半である。

であれば神武の東征は紀元300年前後のこととなる。
スサノオの子孫はもはや引かなかった。倭国に臣従し神武の支配下に入るふりをしながら政府の実体を離そうとしなかった。そして10代を経て応神天皇系というかたちで支配権を掌握してしまうのである。