赤旗に、金文子「日韓の歴史をたどる」という連載が始まっている。

今朝の記事はその5回目で、「王后殺害事件」(1895年10月)を扱ったもの。「国権回復恐れ、勢力拡大狙った日本」という横見出しがつけられている。

以前より議論のあった高宗の后、閔妃の殺害をめぐる黒幕論である。

結論から言うときわめて明快な解答で、指揮系統のトップにいたのはときの外務大臣西園寺公望ということだ。

根拠は、西園寺の文書である。

(親日政権の成立に)内密にせいぜい尽力せらるべし

という訓令が「日本外交文書」に残されているらしい。

これだけではやや抽象的だが、発せられた日付が事件の2ヶ月前であること、それが事件の外務省側の責任者であった杉村ふかし書記官のもとめに応じたものだったということを勘案すると、西園寺の指示だったと言えるとの判断である。

そのあたりの機微は、杉村の回顧録「在韓苦心録」に記載されている。

杉村は事件の2ヶ月前に西園寺に報告書を提出している。金文子の解釈によると、杉村は王后が政権を掌握したことを明らかにした。

そしてこれを傍観すべきか、親日政権の成立に尽力すべきか、について指示を求めたという。

ということで、事件の指揮系統が外務省のトップまで通じていたことはわかった。

ただこれだけでは、この線が本線なのか、軍部と三浦梧郎の線が本線なのかはわからない。それと外務省が列強を挑発するような強硬策に走った理由が見えてこない。

明らかなのは、外務省が三浦と軍部の独走に追随したのではなく、トップの明確な意思をもって対応したことである。

それ以上はもう少し金文子さんの文章を読み進む必要がありそうだ。
この事件についてはいろいろな論及があり、その中で外務省の線は比較的軽視されていたかも知れない。

かと言って「主犯説」にまで持ち上げるのはちょっとむずかしいかも知れないが…