死後手続き・相続の体験を綴る

以下は心覚えのための記録であり、ひと様に見せるようなものではないが、ひょっとして参考になるかも知れないので載せることにする。

1.妻の死から葬式まで

4月27日の夜、妻の容態が急変して救急車で病院に向かったが、間もなく死を告げられた。

年齢的にはまだ若かった。だが、多系統萎縮症という病期の性格上、これから先は生きていても苦しいだけで、病期的には頃合いであったかも知れない。

飲み友達の青山君に連絡して、葬儀社への連絡を頼んだ。それから出入りのヘルパーさんの土田さんに身の回りの処理を頼んだ。

青山さんが知り合いの葬儀屋さんに連絡をとってくれ、30分ほどで霊柩車がやってきてくれた。

じつはこの葬儀屋さん、種市さんという。バリバリの活動家で、私自身も顔見知りの「民主的な葬儀屋さん」である。いわば民医連の葬儀屋版ということで、テレビドラマになってもおかしくないような立派な筋の通った営業をしている。

それはそれとして…
いまや「一人暮らし老人」となった私が自宅に妻を連れて帰ってもどうしようもないので、葬儀屋さんに一泊させてもらうことにした。

とりあえず遺体を広間に安置した後、葬式の段取りの相談が始まった。式は家族葬、無宗教というところまではスラスラと行ったが、お悔やみ欄に載せるかどうかが思案どころとなった。結局載せてもらうことにした。

今考えると、お悔やみ欄に載せたら家族葬ではないのだ。じゃあどちらにすべきだったのかと考えると、やはり載せて正解だったと思う。

80,90の婆さんならそれで良いが、69歳という齢ではまだ娑婆に色気もある。友達の何人かにも来てもらいたかろう。

それは家族葬ではなく、ただのお葬式だ。それでいいのだと納得した。葬儀屋の種市さんも飲み友の青山さんも「ウンウン」とうなずいた。

2.序盤戦の開始

翌30日(日曜日)は友引で、通夜と葬式が1日づつ後ろにずれた。別に占いを信じるわけではないのだが、焼き場の関係でそうせざるをえないのだ。実のところ、これは私にとってはありがたかった。

なにせ土曜の夜中の急死で、しかも未だかつてないという長期連休の初日であるから、お役所関係は全てストップだ。ということは葬式以外の仕事はできないということだ。

現金はなぜかあった。たまたま、まったく無関係のことで150万ほど引き出していたからだ。これも今から考えると不思議な事で、カミさんの所業ではないかと考えている。

葬儀屋の費用は170万円。不足分は後日払込となった。無宗教だと安い。戒名もお経もいらない。ムダに頭を下げる作業も省略できる。

偲ぶ会は私が病状経過を報告して、私の選んだ写真をストリーミングで流した。15分の長さで、その間ロシアのショパンたちのピアノ曲を流した。写真はダブリがあったり大きさが不揃いだったり、手作り感というかでっち上げ感たっぷりだった。

弔電を紹介し、後は全員に一輪づつお花を捧げてもらい終了。全部で30分だが、十分だった。後で皆さんに良かったと褒められた。

ただし写真の選択とスライド化は私にしかできないので、きわめてタイトな仕事となった。私がそれにかかりっきりになったのだが、青山さんが受付を、土田さんが接待を仕切ってくれてまことにありがたかった。

3.最初にして最大の教訓…日記をつけること

死亡日がGWの幕開けということと、そのGWが史上空前の長期に渡るということで、ポッカリと空白が生まれた。

29,30日で葬式が終わり、妹家族と息子家族で8人が寝起きした我が家は、5月3日には私一人となった。正確には骨と遺影があるが、これをボデーカウントするとかえって気持ち悪い。

仮設祭壇は花で埋まり、ユリの匂いが殊の外辛い。

恒例のメーデー集会、憲法記念日集会も今年は面倒だ。本屋で「死後のしごと」という新書を買って読んで暮らしていた。

その時愕然としたのだが、業務量の煩雑さと膨大さは半端ではない。本を読もうとするのだが、活字が頭の中に入ることを拒否する。目は活字の上を泳いでいる、本はボールペンの赤線で埋まっていく、しかし脳は反応しない。

このぐーたら脳にやるべき仕事を押し込むためには、音読し、書写し、ポイントとなる事実に番号を割り振るしかない。

ことの大変さに気づいた私は、ノートに書き出すことにした。今考えるとこれがどれほど身を助けたかしれない。

メモ帳では絶対に足りない。ノートは開いたら左側から書き始めなければならない。片面では足りず見開きにしなければならないことが多いからだ。

左側には問題リストを書き出す。書類や名刺、連絡先、メモ紙を貼り付ける。貼るのは便利だし、後々かならず役に立つが、貼るだけでは頭には入らない。その貼ったものが何なのか、どんな意味を持つのかを右側に手書きする。一つの資料には必ず2つ、3つの意味があるのだ。

どんなに整理された文章であっても、それはあくまで文章である。最終的にはそれを片手に現実にぶつかっていく他ないのである。その決意を育てるための文章化なのだ。