同じサイトの別記事で、「三井の歴史 暖簾印を定め、両替商へ進出」というのがあり、ここに京都進出の経緯が比較的詳しく紹介されている。
しかしなぜか読みにくい内容だ。

少し解説もつけながら紹介する。

1683年、高利が両替業に進出した。

1686年には、京都にも両替店を開いた。

ここからが大事なところだが、
高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。
と書かれている。しかし「両替店を活用した為替」とは何なのかわからない。そもそも両替業とはどんな商売なのだろうか。

為替業が「江戸・大阪間」に限定される形で展開されたこと、為替業者間の競争に江戸の商人が勝利した理由、「幕府の御用為替方」という肩書きがどんな意味を持つのかもわからない。

とりあえず読み進めよう。

1.上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。

ということで、「財」に3つの形態があることがわかる。すなわち米、金、銀である。これらは相互に交換されなければならないが、それは商品取引ではなく「財」同士の取引だから「両替」ということになる。

2.幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。

この仕掛けには3つの無駄がある。コメを大阪で販売するための流通コスト、銀を金に交換する両替コスト、さらに金を江戸に運ぶコストである。

為替業者が間に入ると、第2、第3のコストは消失する。業者の為替手形が決済手段となり「仮想通貨」の役割を果たすからだ。

3.高利は幕府に為替の仕組みを献策した。幕府は大阪御金蔵銀御為替御用を命じた。

それがいかに良案としても、そこには権威と規模(手形の流通量)が必要だ。幕府はそれを勘案して三井に丸投げしたということになる。

4.三井両替店は大阪に江戸両替店を出店させ、幕府の為替御用方としての地位を確立。

こうして事業を成功させた高利は、65歳になって京都へ居を移し、8年後に没した。

彼にとって江戸は勝負の場所であったが、人生双六のあがりは「京」でなくてはならなかったのだろう。

これが、京都と三井をつなげる「絆」である。高利の思いは思いとして、京都の町衆が高利を仲間として受け入れていたかどうか、いささか疑問の残るところではある。

ということで「三井は京都を本拠としていた」というのはほぼウソ。功成り名遂げた三井家の始祖が晩年を過ごした隠居所くらいのところであろう。ただその子孫が京都をフランチャイズにした可能性は否定できないが…

両替の歴史、金本位と銀本位の並立、江戸と大阪の交通・運輸についてはいずれまた調べたいと思う。