テレビで祇園祭の山鉾について特集番組を組んでいた。
見ていて気になったのが、「三井は京都を本拠としていた」という話。
私の記憶では松阪出身の三井某が江戸に出て、「越後屋」の屋号で商売を始めたという話だったように思う。
それが掛売りなし、正札売りのやり方で成功したというような話だったように思う。
ただこれは三井本人の宣伝の匂いもしていて、やはり金貸しが本業ではなかったのか、着物の商いは金貸しという後ろ暗い商売を隠すカモフラージュではなかったのか、とも感じている。
もうひとつは、これは京・大阪の資本に対抗する江戸資本の代表ではないのかという印象もあった。
それが京都を代表する大店と言われると、ずいぶん話が変わってくる。
本当のところはどうなのか? ひょっとして三井自身の宣伝に騙されているのではないか?
少し調べてみることにした。

まずは「三井広報委員会」のサイトから「三井の年表」を探した。

江戸時代初期 三井高俊(三井高利の父)が妻・殊法と松阪で酒・味噌などの商いを始める

元和8年(1622) 三井家の家祖・三井高利誕生

寛永12年(1635) 高利、14歳で松阪を出立、長兄の店に奉公する

慶安2年(1649) 母・殊法の孝養のため松阪に帰郷

延宝元年(1673) 52歳で江戸本町1丁目に三井越後屋呉服店を開く

天和3年(1683) 本町1丁目店を駿河町南側へ移し、その隣に両替店を新設

元禄7年(1694) 高利、73歳で没

宝永7年(1710) 長男・高平が事業統括機関・大元方を設置

書いてあることは簡単。

1.戦国時代末期、三井則兵衛高俊という人物がいた。
彼は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めた。俗に言う「伊勢商人」のひとつである。
この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。
武士の子である高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的に妻の殊法が取り仕切っていた。

2.長男・俊次は早くから江戸へ出て本町4丁目に小間物屋を開店。後に呉服業も手掛けるようになった。4男にあたる高利も、14歳で江戸の店に出て奉公した。

3.高利は故あって松坂に戻るが、52歳で江戸に出て三井越後屋呉服店を開いた。兄の店に対し分家筋ということになる。店は成功し経営は発展。やがてその長男が持株会社を創設し「三井家」を名乗ることになる。

本家筋がどうなったのか、京都の話はどこにいったのか、皆目わからない。

なお越後屋は明治のはじめに独立し、明治26年にはいったん三井呉服店を名乗るが、明治37年に三越百貨店と改称する。ようするに「三越」というのは、このときに三井と越後の頭文字をくっつけたものなのだ。

ここまでが予告編。2つの謎は次回に。