根室市に行って泊まれるというのは、根室支店のある会社に勤めるものにしか味わえない喜びだ。
私は釧路勤務の4年間に7,8度はそれを経験した。

根室は北海道のなかではけっこう古い町で、明治のはじめには北海道とは別に根室県というのがあって、その県庁所在地だった。福沢諭吉もきたことがある、というのが町の自慢だ。
町のガタイは相当大きい。「市街地」の端から端までは歩くのがいささかしんどいくらいだ。根室の駅から1丁ほど広い通りを歩いて国道にぶつかる。そこから右に折れて2丁ほど歩くと根室市役所やら根室支庁やらがある。さらにそこから2,3丁歩くと繁華街があり、やがて港に出る。その間にいかにも由緒めいたお寺がいくつかあり、不似合いな洋風の歩道橋があり、立派な構えの造り酒屋がある。
街の至る所に日本語・ローマ字・ロシア語で書かれた標識があり、港には見事なまでに赤茶けたロシア船が停泊している。
高台に立つホテルの窓からは、天気が良ければ正面いっぱいに国後の島が浮かぶ。日頃の行いがよくないせいか、国後が見えたのはただ一度だけ、だからよけいに感激したものだ。
昔はこの街から国後、択捉、さらにその北方の島々にゆく連絡船が出た。カムチャッカでとれたカニを満載した船がつき、日魯漁業の缶詰工場では多くの女工さんが働いていた。
根室は終着駅ではなく海外への玄関口だったのだ。

根室の旨いもの?
あまりないよ。
というのも釧路にすんでいたら、ほとんど代わり映えしないからだ。
もし食べるとすればホッケの焼いたのか、クロガシラというカレイの煮つけかな。花咲ガニというカニが名物だが、かなりくせのある味だから好みは分かれるだろう。駅前に三軒すし屋があってどこもまずまずだが、駅に一番近い店が一番気に入っている。街の方のすし屋はどうも雰囲気が落ち着かない。
街場では居酒屋だが、焚き物を並べているところがあって、ホッケやクロガシラはそこで食べた。市立病院の医者や看護婦のたまりらしい。
だいたいこういう店が旨いのだが、中には一見の客に横柄なところもある。釧路や函館がそうだった。逆に余市や浦河はたいそう良かった。苫小牧でもいい店を見つけた。
考えると、民医連の医者は医者と言っても半分プロレタリアートだから、正真正銘の少ブルであるお医者さんとは趣味は合わない。端的に言えばセコい。それが田舎に行くとその境目が低くなるのだろうと思う。

これではいつまでたっても本題に入らない。
ある日、昼過ぎに仕事が終わった。本日はフリーだ。寝る前に釧路に着けば良い。駅弁を買ってゆっくり食べながら汽車で帰ろうと決めた。(汽車というのが古いですね)

根室の駅には今でも駅弁がある。定番は「エスカロップ」、平たく言えばカツライスだ。いわゆる「サテ飯」の一品だ。ライスはバターで炒めてある。率直に言えば、さほどのものではない。

これを買って、ターミナルの土産屋を見て回るが、ほとんどは道外観光客目当ての物ばかり。
と、店の片隅で一人の男が品物を並べている。
真ん中には大小10個ほどのマトリューシカとサモワール、めのうの首飾り、その脇にロシア民謡のCDが10枚ほどと紅茶の紙包み、香水瓶。壁には模造イコンとサラファンが数枚。

食いつきそうな男の視線から目をそらせながら、「まずはとにかく何かを買うべきだ」という衝動に突き動かされていくつかを買った覚えはあるが、何をどれだけ買ったかについての記憶はとんとない。
多分女性にはこういうことはないだろうが、男はこういう買物をすることが、たまにあるのである。

根室という、北海道民にすら忘れ去られたような街で、そこに外国につながる密かな通路があって、それがウラ寂れた鉄道駅の隣のターミナルの待合室にひょっこりと口をのぞかせていて、そこと買い物という手段を通じて連絡してしまった、そんな感じがするのである。
もし通りすぎてしまっていたら、それはもっとも自然な流れであったはずだが、大げさに言えばそれは一生涯悔いを残すのではないかと、ふとそんな気がしたのである。

多分それは正解だったろうと思う。買ったからこそ、買ったという、買った瞬間からデジャヴとなる、セピア色を帯びた、そういう記憶が今でも残っているのだ。

その男がどういう人だったかも思い出せない。若くはない、かといって私ほど老人でもない、背の低い、汚れてくすんだ黒の革靴を履いた人だったと思う。

それは寅さんではないが、私の影法師としての寅さんだったのかもしれない。

この10年は根室を訪れるロシア人の数はめっきり減ったという。ロシア領海に突っ込む特攻船も減ったらしい。つまり沖合で両者がカネとカニのやりとりをして、それが漁獲物として水揚げされているということだ。

だからロシア語の標識はもう増えることはないし、ターミナルの待合室に彼が立つこともなくなっていくだろう。
私は歴史の一瞬を切り取ったのかもしれない。