櫛目文土器と縄文式土器

ゲノム解析による日本人論がたくさん出てきている。そのなかで①旧石器人が縄文人になっていく過程、②縄文晩期人の由来、がいろいろ議論になっているようだ。

そこで鍵となるのが、南九州にいち早く開いた“縄文文化”の位置づけだ。彼らを縄文人と呼んでいいのか、それとも朝鮮半島の影響を受けたものなのかという問題がひとつある。

片方では出口問題、鬼界カルデラの噴火で一旦南九州の文化が消滅した後、彼ら(の残党)が北九州に移動した可能性があるのか、もし移動したのだとすれば、彼らが縄文晩期人を形成したのではないかという問題がある。

そこで議論となるのが、南九州人の土器が朝鮮の櫛目文土器ではないかという主張である。

櫛目文土器土器時代は1万年前に始まり、3500年前まで続いたという。その後、無文土器時代へと移行し、これが紀元300年まで続く。

横並びにすれば櫛目文土器が縄文に一致し、無文土器が弥生土器に一致することになる。

しかし東北の縄文式土器も南九州の土器も1万年以上前に始まっており、少なくとも櫛目文土器が縄文に先行しているとは言い難い。

率直に言って、Y染色体やミトコンドリアDNAの理論とも、考古学的年代とも整合しないように思えるが、まずは少し主張(ウィキペディア)に耳を傾けてみよう。

櫛目文時代の亜区分

前期 8000~5500年前

漁労や狩猟が行われた。後半期には大規模な貝塚。竪穴式住居で半定住的生活。

櫛目文土器が出現するのは6000年前からであり、意外に遅い。最古のものは遼河文明から発見されており、北から流入した文化と考えられる。

当時の朝鮮半島に居住していたのはY染色体ハプロのNに相当する。これは縄文人の源流であるナウマン人(C1)、マンモス人(D2)に比べ遅れてアジアに到着した人々である。

中期 5500~4000年前

中心は漁労や狩猟。雑穀などの栽培が始まる。

後期 4000~3500年前

えらく短いが、なにか意味のある区分なのだろうか。

この後、ウィキペディアに問題の記載が出現する。
縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けた。
他にも朝鮮半島に起源をもつ「結合式釣り針」や「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など共通する文化要素が見られる。
ということで、曽畑式土器と言われると「なるほどそこから来たか」とおもうが、かなりの変化球ではある。

曽畑式土器については次の記事で触れることにする。