高柳良治さんの文章からちょっと引用させてもらう。

へ一ゲルは「精神現象学」で、独特の「ロビンソン物語」を展開している。
そこでの行論はこういうことになる。

欲求(Begierde)は対象を完全に消費し尽くし、それによる混じりけない自己感情を自分の手に残す。

この満足は、それ自身としては消え去るものにすぎない。なぜならそこには何もモノとしては残らないからである。

これに対し労働は形成する。労働している人にとって労働の対象は自立性をもっているから、労働は対象に永続的な形式を与えることになる。

このとき労働する人の(目的)意識は自分の外に出て対象に入り永続する。このとき、労働する人は自分自身が自立した存在であることを実感する。

この後は高柳さんの解釈。
たんたる欲求の満足はその場かぎりで消失してゆく。
しかし労働は形成する.しかもこの形成は二面的である。
一方で、労働対象は労働によって今までの形式を否定される。そしてその代りに新しい形式(価値)を獲得する.

と同時に、人間は労働によって、自然のまま衝動的な生から脱け出すのである。
人間は労働において自立した対象の中に入り込まなければならない。その過程で対象に対する認識が深められ、習熟し、能力が高められるからである。
ルカーチが言うように、人類の発展、原始状態からの社会化は、労働によってのみ可能となる。

文章ではこのあと道具・手段と理性の狡知が語られるが、私は従来の見解に対して異論がある。いずれ、もう少しシラフのときに書くことにする。

新古典派にはこのような人類史的視点はない。一輪車の曲乗りで、転ばないような方程式を作ることを経済学の本流と考えれいる。